[音楽]

「それが、愛でしょう」の謎 / 2010-09-03 (金)

 どこかのサイトで下川みくにの「それが、愛でしょう」を結婚式で歌いたい歌として挙げているコメントがあった。少々ドキッとした。というのは私自身この歌についてよく解らない謎をいくつか抱えていたからである。そこでこれを機に少々掘り下げて分析を試みることにした。

 まずこの歌の第一印象をまとめると、本当の愛とは何かについての気づきがありそれを現在のパートナーと育んでいこうとしている、という主旨であるように聞こえる。この印象からこの歌を結婚式で歌おうということになるのだろうと思う。だが「それが、愛でしょう」にはもっと複雑な事情が隠されているように感じられるところがあるのだ。

 誰しもが感じることだと思うが、最初に気になったのは、第1コーラスと第2コーラスの終わりかたと曲全体の終わりかたである。いずれもDJがターンテーブルをスクラッチするような断絶を強調したアレンジ(「ふもっふ、ふもっふ」と聞こえる効果音が突然入って終わるかたち)になっており、これが非常に強いインパクトを曲に与えている。とりわけ曲の終了の部分では余韻というものが全く残されていない。余韻をいかにして深いものにするかが文学・芸術の普遍なる課題である。その大事な余韻が残されていないというのはたいへん特徴的なアレンジであり、何らかの意図がこめられていると感じられる。またPVでは、最後の「ふもっふ、ふもっふ」の瞬間、それまでアップで映っていた下川みくにが突然消え去る映像になっている。サウンドのみならずPVの映像もまた余韻の無い断絶が表現されている。この断絶アレンジの意図がまず第1の謎である。

 この曲の構成は次のとおり。

■1コーラス目

Aメロ

Bメロ

サビ(1)

■2コーラス目(転調)

Aメロ

Bメロ

サビ(2)

■間奏

Coda

サビ(1)

CD Jacket

 謎を解くカギはシングルCDに入っているカラオケを聞かなけれけば手に入らない。かなり耳の良い人でないとボーカルのあるトラックを聞いているだけではなかなか気付かないだろうと思う。この曲にはイントロからディストーションのかかったエレキギターが使われており、この濁ったギターがときにサイドを刻み、ときにアルペジオをとるのであるが、第2コーラス目までは平穏を保っているこのギターがCodaに入るや突如として変調をきたすのである。その変調はサビに入るといよいよ顕著となりサビの絶頂時点ではもはや完全な不協和音となってしまうのだ。その調べは身悶えせんばかりの苦おしさに満ちていている。

 このCメロのギターアレンジを第2の謎としたいが、このギターの変調で解ることはこの曲は少なくとも単純に幸福や希望を表現したものではない、ということであろう。いやむしろ第1の謎の断絶アレンジとこの苦悩のギターアレンジを組み合わせて考えると、何らかの苦悩の果てに絶望(断絶)が訪れる、もしくは突然の断絶(絶望)によって苦悩に苛まれるというのがこの曲のほんとうの主題表現なのではないか、ということだ。

 では次に下川みくに自身による歌詞をみていこう。

■第1コーラスAメロ
例えばね涙がこぼれる日にはその背中を独り占めしたいけど

■第1コーラスBメロ
雨上がりの街虹が見えるなら今歩き出そう何かが始まる

■第2コーラスAメロ
何も言わないでもこんな気持ちが君の胸に伝わればいいのに

■第2コーラスBメロ
少しずつ街は色を変えるけどほら、想い出がまたひとつ増えた

 第1コーラスも第2コーラスもAメロの歌詞は文末を省略してハッキリした表現をしていない。音楽はどんどん流れてゆくから聴いていると明確な輪郭ができないうちにBメロが始まってしまう。明解な表現を避けたAメロに対してBメロは「歩き出そう何かが始まる」「またひとつ増えた」と断定的であり明快でありかつ積極的である。Aメロのぼんやりしたセンチメンタルな印象はBメロで払拭されて俄然前向きに元気な印象になる構造だ。

 サウンドの方は例の濁ったギターはイントロでカットを刻むだけでAメロでは使われず、代わりにアコースティックギターの高音のアルペジオが用いられていてクリスタルな印象を奏でている。そしてBメロの冒頭でジャーンと鳴って入ってくるのが例の濁ったギターなのである。

 音楽を聴かずにAメロの歌詞を読むと「けど」や「のに」は反語表現であることがわかる。「独り占めしたいけど(……それはできない)」、「伝わればいいのに(……伝わらない)」ということである。この反語によって否定的・悲観的な感情が暗示されているのだ。続くBメロでは前向きなポジティブシンキングに変化してAメロの悲観を打ち消している、かのように見えるのだが、第1コーラスは「虹が見えるなら」という仮定表現をとっている。現実的にも虹はそうそう頻繁に見られるものではないので、これは理想と現実にギャップがある、すなわち虹など見えないから歩き出せない、ということなのではないかとも解釈できる。第2コーラスのほうは、想い出が増えていく=価値のあるものはどんどん過去へと消えてゆく、というような含意があるように思えないことはない。一見前向きなようでいて実はその正反対で、ほとんど絶望に近いような解釈が可能なのがBメロなのである。濁ったギターがBメロから使われてゆくのはそれをサウンドで表現したものではないだろうか。

 そして問題のCメロである。

■Cメロ
ふとした瞬間つのる気持ちじゃなく少しずつ育てていくものだね愛する気持ちは

 この「ふとした瞬間つのる気持ち」とは、第1コーラスAメロで歌われた「涙がこぼれる日にはその背中を独り占めしたい」ような気持ちなのではないだろうか。「気持ち」が具体的に表現されている部分はここにしかないのだ。AメロBメロの他にCodaを入れるのは最近の流行りだが、再び第1コーラスAメロを連想させるパートだとすればこのCodaにはたいへん重要な意味があるといえよう。

そしてサビを検討しよう。

第1コーラス
……透き通るその目の中に 確かな意味を探して……

第2コーラス
……君の言葉のひとつひとつを今は抱きしめられる……

とある。長くなるので上記は抜粋したものだが、「透き通るその目」とか「言葉のひとつひとつを今は抱きしめ」というのは前後の脈絡がなく意味が掴めない。ところが実はこのフレーズはこの歌の3ヶ月前に既に歌われているのである。つまり一つ前のシングルに収録されている「Again」(下川みくに作詞)の中の以下の部分とみごとに対応がとれているのでよく見比べてほしい。

……ウソのつけない瞳が何よりも愛しかった……(「Again」第1Aメロ)

……からみ合った言葉をほどいてひとつずつ抱きしめてる……(「Again」サビ・リフレイン)

 この「Again」は聴く者に落涙を迫る隠れた名曲なのだがその歌詞は別れた恋人を慕い焦がれるという内容になっている。その「Again」のリフレインが「それが、愛でしょう」のサビに継げてあるとなれば、この2曲は姉と妹であって、まったく同じ血が流れていると断じてよいだろう。いかがだろうか。これですべての謎は解けていると思う。

 「それが、愛でしょう」はいうまでもなくTVアニメ『フルメタル・パニック? ふもっふ』オープニング主題歌である。これからアニメを見ようとするときにかかる音楽は楽しく高揚する雰囲気の歌でないと困るのである。別離を嘆き悲しむ湿っぽい歌であっては甚だ調子が悪い。実際この歌の全体の曲調は優美にしてテンポも軽やかでたいへん調子がよろしい。しかしここまで見たようにこの歌の内実は愛しい恋人と別れてしまった嘆きの詩なのである。軽妙にして快調な曲の中にいかにして悲しみの主題を潜ませるか、ここにアレンジの苦心が必要だった。その結果が曲の断絶とギターの変調を生み出したものと思われる。そしておそらく作詞もできるかぎりモチーフを隠蔽するために何度も何度も練り直したに違いなかろう。「Again」が収録された前作「all the way」から3ヶ月弱でこの曲をリリースしたのはさぞかしキツイ仕事だったと思われる。だが、だからこそこれは彼女の代表作になり得た。まさに、秘すれば花なり、である。

 ちなみにCDタイトルは「それが、愛でしょう/君に吹く風」となっており、この2曲のほかに「あれから」という歌が入っている。さりげなくひっそりと入れられたこの「あれから」にこそ「それが、愛でしょう」で抑えに抑え隠しに隠した彼女の真情が遺憾なく吐露されている。この曲もまた胸の奥を疼かせるような作品である。レコード会社がCCCDにしたためにその分傷がついてしまったのがいかにも惜しまれるのだが、それでも珠玉の名盤であることにかわりはない。


[音楽]

「それが、愛でしょう」の謎 / 2010-09-03 (金)

 どこかのサイトで下川みくにの「それが、愛でしょう」を結婚式で歌いたい歌として挙げているコメントがあった。少々ドキッとした。というのは私自身この歌についてよく解らない謎をいくつか抱えていたからである。そこでこれを機に少々掘り下げて分析を試みることにした。

 まずこの歌の第一印象をまとめると、本当の愛とは何かについての気づきがありそれを現在のパートナーと育んでいこうとしている、という主旨であるように聞こえる。この印象からこの歌を結婚式で歌おうということになるのだろうと思う。だが「それが、愛でしょう」にはもっと複雑な事情が隠されているように感じられるところがあるのだ。

 誰しもが感じることだと思うが、最初に気になったのは、第1コーラスと第2コーラスの終わりかたと曲全体の終わりかたである。いずれもDJがターンテーブルをスクラッチするような断絶を強調したアレンジ(「ふもっふ、ふもっふ」と聞こえる効果音が突然入って終わるかたち)になっており、これが非常に強いインパクトを曲に与えている。とりわけ曲の終了の部分では余韻というものが全く残されていない。余韻をいかにして深いものにするかが文学・芸術の普遍なる課題である。その大事な余韻が残されていないというのはたいへん特徴的なアレンジであり、何らかの意図がこめられていると感じられる。またPVでは、最後の「ふもっふ、ふもっふ」の瞬間、それまでアップで映っていた下川みくにが突然消え去る映像になっている。サウンドのみならずPVの映像もまた余韻の無い断絶が表現されている。この断絶アレンジの意図がまず第1の謎である。

 この曲の構成は次のとおり。

■1コーラス目

Aメロ

Bメロ

サビ(1)

■2コーラス目(転調)

Aメロ

Bメロ

サビ(2)

■間奏

Coda

サビ(1)

CD Jacket

 謎を解くカギはシングルCDに入っているカラオケを聞かなけれけば手に入らない。かなり耳の良い人でないとボーカルのあるトラックを聞いているだけではなかなか気付かないだろうと思う。この曲にはイントロからディストーションのかかったエレキギターが使われており、この濁ったギターがときにサイドを刻み、ときにアルペジオをとるのであるが、第2コーラス目までは平穏を保っているこのギターがCodaに入るや突如として変調をきたすのである。その変調はサビに入るといよいよ顕著となりサビの絶頂時点ではもはや完全な不協和音となってしまうのだ。その調べは身悶えせんばかりの苦おしさに満ちていている。

 このCメロのギターアレンジを第2の謎としたいが、このギターの変調で解ることはこの曲は少なくとも単純に幸福や希望を表現したものではない、ということであろう。いやむしろ第1の謎の断絶アレンジとこの苦悩のギターアレンジを組み合わせて考えると、何らかの苦悩の果てに絶望(断絶)が訪れる、もしくは突然の断絶(絶望)によって苦悩に苛まれるというのがこの曲のほんとうの主題表現なのではないか、ということだ。

 では次に下川みくに自身による歌詞をみていこう。

■第1コーラスAメロ
例えばね涙がこぼれる日にはその背中を独り占めしたいけど

■第1コーラスBメロ
雨上がりの街虹が見えるなら今歩き出そう何かが始まる

■第2コーラスAメロ
何も言わないでもこんな気持ちが君の胸に伝わればいいのに

■第2コーラスBメロ
少しずつ街は色を変えるけどほら、想い出がまたひとつ増えた

 第1コーラスも第2コーラスもAメロの歌詞は文末を省略してハッキリした表現をしていない。音楽はどんどん流れてゆくから聴いていると明確な輪郭ができないうちにBメロが始まってしまう。明解な表現を避けたAメロに対してBメロは「歩き出そう何かが始まる」「またひとつ増えた」と断定的であり明快でありかつ積極的である。Aメロのぼんやりしたセンチメンタルな印象はBメロで払拭されて俄然前向きに元気な印象になる構造だ。

 サウンドの方は例の濁ったギターはイントロでカットを刻むだけでAメロでは使われず、代わりにアコースティックギターの高音のアルペジオが用いられていてクリスタルな印象を奏でている。そしてBメロの冒頭でジャーンと鳴って入ってくるのが例の濁ったギターなのである。

 音楽を聴かずにAメロの歌詞を読むと「けど」や「のに」は反語表現であることがわかる。「独り占めしたいけど(……それはできない)」、「伝わればいいのに(……伝わらない)」ということである。この反語によって否定的・悲観的な感情が暗示されているのだ。続くBメロでは前向きなポジティブシンキングに変化してAメロの悲観を打ち消している、かのように見えるのだが、第1コーラスは「虹が見えるなら」という仮定表現をとっている。現実的にも虹はそうそう頻繁に見られるものではないので、これは理想と現実にギャップがある、すなわち虹など見えないから歩き出せない、ということなのではないかとも解釈できる。第2コーラスのほうは、想い出が増えていく=価値のあるものはどんどん過去へと消えてゆく、というような含意があるように思えないことはない。一見前向きなようでいて実はその正反対で、ほとんど絶望に近いような解釈が可能なのがBメロなのである。濁ったギターがBメロから使われてゆくのはそれをサウンドで表現したものではないだろうか。

 そして問題のCメロである。

■Cメロ
ふとした瞬間つのる気持ちじゃなく少しずつ育てていくものだね愛する気持ちは

 この「ふとした瞬間つのる気持ち」とは、第1コーラスAメロで歌われた「涙がこぼれる日にはその背中を独り占めしたい」ような気持ちなのではないだろうか。「気持ち」が具体的に表現されている部分はここにしかないのだ。AメロBメロの他にCodaを入れるのは最近の流行りだが、再び第1コーラスAメロを連想させるパートだとすればこのCodaにはたいへん重要な意味があるといえよう。

そしてサビを検討しよう。

第1コーラス
……透き通るその目の中に 確かな意味を探して……

第2コーラス
……君の言葉のひとつひとつを今は抱きしめられる……

とある。長くなるので上記は抜粋したものだが、「透き通るその目」とか「言葉のひとつひとつを今は抱きしめ」というのは前後の脈絡がなく意味が掴めない。ところが実はこのフレーズはこの歌の3ヶ月前に既に歌われているのである。つまり一つ前のシングルに収録されている「Again」(下川みくに作詞)の中の以下の部分とみごとに対応がとれているのでよく見比べてほしい。

……ウソのつけない瞳が何よりも愛しかった……(「Again」第1Aメロ)

……からみ合った言葉をほどいてひとつずつ抱きしめてる……(「Again」サビ・リフレイン)

 この「Again」は聴く者に落涙を迫る隠れた名曲なのだがその歌詞は別れた恋人を慕い焦がれるという内容になっている。その「Again」のリフレインが「それが、愛でしょう」のサビに継げてあるとなれば、この2曲は姉と妹であって、まったく同じ血が流れていると断じてよいだろう。いかがだろうか。これですべての謎は解けていると思う。

 「それが、愛でしょう」はいうまでもなくTVアニメ『フルメタル・パニック? ふもっふ』オープニング主題歌である。これからアニメを見ようとするときにかかる音楽は楽しく高揚する雰囲気の歌でないと困るのである。別離を嘆き悲しむ湿っぽい歌であっては甚だ調子が悪い。実際この歌の全体の曲調は優美にしてテンポも軽やかでたいへん調子がよろしい。しかしここまで見たようにこの歌の内実は愛しい恋人と別れてしまった嘆きの詩なのである。軽妙にして快調な曲の中にいかにして悲しみの主題を潜ませるか、ここにアレンジの苦心が必要だった。その結果が曲の断絶とギターの変調を生み出したものと思われる。そしておそらく作詞もできるかぎりモチーフを隠蔽するために何度も何度も練り直したに違いなかろう。「Again」が収録された前作「all the way」から3ヶ月弱でこの曲をリリースしたのはさぞかしキツイ仕事だったと思われる。だが、だからこそこれは彼女の代表作になり得た。まさに、秘すれば花なり、である。

 ちなみにCDタイトルは「それが、愛でしょう/君に吹く風」となっており、この2曲のほかに「あれから」という歌が入っている。さりげなくひっそりと入れられたこの「あれから」にこそ「それが、愛でしょう」で抑えに抑え隠しに隠した彼女の真情が遺憾なく吐露されている。この曲もまた胸の奥を疼かせるような作品である。レコード会社がCCCDにしたためにその分傷がついてしまったのがいかにも惜しまれるのだが、それでも珠玉の名盤であることにかわりはない。


[映画、ドラマなど]

「エジソンの母」を8倍楽しむ方法 / 2008-01-28 (月)

 きょう娘に「ブログ更新しないの?」と尋ねられた。とっさに「ああ、あれはブログじゃないんだ、だからそんなに頻繁には更新しないんだよ」って答えて、そしてこう付け加えた。「それにあれには誰も言わないことだけを書くんだ」。嘘ではない。少なくともこのドラマ・アニメのカテゴリはそうだったのだ、たったさっきまでは……。つまりこれを書いている今、早くもその原則が崩壊しつつあるのである。娘のさりげない一言はかくも父親を動揺させるものであろうか。我ながら情けない。情けないが誘惑に勝てないので書いている。

 娘はTBSのドラマ「エジソンの母」について書かないのかと問うているのであろう、と思われる。「エジソンの母」はこれを書いている時点で既に3 話目が放映されているのだが、我が家では録画しておいて家族皆が揃ったときに視ているのでまだ第2話までしか視ていない。ただ予想通り視聴率は取れていない様子であり、なおかつドラマは出来がよろしい。初回から私の涙腺は決壊したし、第2話でも思わず目頭が熱くなった。テレビ番組の制作者というのは本当に気の毒な人々である。視聴率という化け物は制作者の努力や予算や情熱や技術といったものを必ずしも正しく評価してくれない。かといって手を抜いてしまえば必ず痛いしっぺがえしをくらう。こういう化け物を相手に懸命に戦う人々を私は尊敬せずにはいられない。

 話が逸れた。「エジソンの母」である。まだ2話しか視ていないので言えることが少ない。ただ一点、このドラマの見どころのひとつに役者の服装があることだけは間違いがない。1話目の出だしで伊東美咲は上下真っ黒の衣裳であった。そして婚約者に没個性を非難されてふられてしまうのである。と同時に花房少年が強烈な個性を持って登場してくるわけだが、この少年の衣裳は真っ赤なジャンパーに真っ白なマフラーである。担任教師としてこの花房少年にてこずりながら彼女は少しずつ没個性から脱却してゆく、というのがこの物語の流れであろう。だとすれば伊東美咲の真っ黒な衣裳は没個性を象徴しているので、彼女の服装は物語の進展につれて少しずつ変化するはずであり、事実、初回のラストでは両袖が茶色に変わっていた。さらに2話目でも前進と後退を繰り返しつつも基本的に黒から離れつつあった。

 さあ、予想屋の出番である。彼女の衣裳は最後は何色になるだろうか?私は伊東美咲は最後はピンクを着るだろうと思うのである。和製エジソン?の花房少年の赤と白はアンビバレンスを表している。つまり彼の強い好奇心とそれを抑えようとする世間の常識が極端に対立しているのである。教師としての役割は、彼の知的好奇心を育てつつ、ともすれば彼を排除したがる周辺の存在との融和を実現することである。したがって赤と白の混合色=ピンクが彼女の理想の色であり、それは同時に彼女自身の個性の主張になるはずなのだ。

 2話目の校長先生がどのような衣裳だったかご記憶にあるだろうか。白と赤の水玉模様の蝶ネクタイを付けていたのである。私の予想の根拠のひとつがここにもある。

 登場する役者たちがどういう場面でどういう衣裳を着ているかを注意するだけでこのドラマが数倍楽しくなることは請け合いだ。そして最後の衣裳の予想が当たるかどうかも気にしつつ、今後の展開を楽しみにしようではないか。

(2008.1.28)


[映画、ドラマなど]

「風のハルカ」と「ガリレオ」の限りなく淡くて濃い関係 / 2007-12-23 (日)

 先日CXのドラマ「ガリレオ」が放映終了した。このドラマにはいくつかの点で興味が惹かれるところがあった。撮影、色の使いかた、小道具の使いかた、ロケシーンの設定、科学の持つ負の側面を批判したシナリオ等々なかなか佳くできたドラマだったと思う。ただ惜しむらくは、脚本・演出スタッフの入れ替わりが激しかったせいか各話(章)ごとにムラが出てしまった。その点を除けば高視聴率にふさわしい作品だったと言えよう。

 ということでいろいろ書きたいことはあるのだが、ここでは誰も書かないだろうこの作品のひとつの妙について触れてみたい。

 まず配役である。主役のガリレオこと湯川の助手に渡辺いっけいが、ヒロインの刑事内海薫のリード役に真矢みきがそれぞれ配されている。渡辺のほうは昇進の見込みもなくなったうだつの上がらないキャラクタ設定であり、真矢のほうは頭脳明晰・沈着冷静な監察医という設定である。実はこの二人、2005 年BKの連続テレビ小説「風のハルカ」で、いつもすれ違うばかりの離婚夫婦を演じたカップルなのだ。「風のハルカ」で渡辺いっけいは夢を追いかけてフリータ生活を続ける情けない父親役であり、真矢みきは公認会計士としてバリバリとキャリアを積む母親役を演じたのであった。つまり「ガリレオ」は「風のハルカ」のキャラクタ設定とそれぞれの立ち位置をそのまま踏襲しているのである。

 もちろん渡辺いっけいも真矢みきもそういう役どころが得意な俳優であることは確かなので、単なる偶然かもしれないし、あるいは「風のハルカ」を視たCXサイドのスタッフが「ガリレオ」のキャスティングにそれを活かしただけかもしれない。だが、どうしてもそれだけではない何かの意図ないし必然があるように思えて私は「ガリレオ」を見続けた。

 第八章までは虚しくもそれは発見できなかったが、第九・最終章でついにそれは表れた。第九章の冒頭は、ある中年男性が宵闇の湖上にボートを浮かべているとそこに突然火柱が上がるというシーンで始まる。そしてその湖の名は「龍仁湖」。つまり湖から龍が登ったのである。これこそ「風のハルカ」第一週目の「青龍湖」から龍が登るエピソードをそっくり引用した脚本なのだ。さらにそのボートの主を演じたのは、升毅。「風のハルカ」でヒロインの伯父(=真矢みきの兄)を演じた俳優である。やはり「ガリレオ」は「風のハルカ」を強く意識したうえで制作されていたのだった。

 この第九章を視た私は最終章で渡辺いっけいと真矢みきがどうなるのかが気になった。ひょっとしたらこの二人が顔を合わせるシーンがあるのではないかとさえ思った。もしそんなことがあればそれは「風のハルカ」を知る者にとってはたいへんなボーナスだ。

 しかし実際はそういうシーンはなかった。じゃあなにもなかったのかというとそうではない。すばらしいラストシーンが用意されていたのである。

 シリーズを通して真矢みきはほとんどのシーンで菓子やパンを食べていた。その真矢みきが最後はひとりで酒を飲むのである。そして渡辺いっけいはというと最後はやはりひとりでクリスマスケーキを脇に抱えて歩いたのだ。つまり菓子が真矢から渡辺へと渡されたわけである。これはこの二人が切っても切れない縁にあることを示唆している。「風のハルカ」の主題は、家族の縁は切っても切れない絆でありたい、というものだった。渡辺いっけいと真矢みきの夫婦はすれ違いの末に離婚してしまい、娘たちの願いや努力も虚しくついに復縁には至らない。「ガリレオ」でクリスマスの晩をそれぞれひとりで過ごした二人のその光景は、「風のハルカ」で復縁には至らない二人を象徴したものだった。しかしその二人は復縁こそしないものの、一年に一回は集まって家族として食事をすることを誓って「風のハルカ」は終わる。その誓いが「ガリレオ」ではケーキのバトンタッチで表現されているのである。全章を通して真矢に菓子を食べさせ続けたのはこのラストシーンへの伏線だったのだ。見事というほかない。そう考えると最終章でこの二人が直接顔を合わせるような余計なボーナスなどがあったらすべてはぶち壊しなのである。

 ではなぜ「ガリレオ」は「風のハルカ」を引き継いだのか。それは分からない。ここから先は邪推である。読まれる方はこれが邪推であることを念頭に置かれたい。

 「風のハルカ」は言うまでもなく大森美香が書き下ろした作品だ。彼女の最高傑作といっていい。その大森美香は他ならぬCXに育てられた人である。私は「ガリレオ」のクレジットロールを毎回つぶさに見たのだが大森美香の名はついぞ見つからなかった。しかしこれほど濃密に「ガリレオ」が「風のハルカ」と連続している以上、「ガリレオ」に大森美香が関与していないはずがないのである。何か名前が出せない仔細があったのではなかろうか。

 1月から始まる民放ドラマの一覧を眺めていて気がついた。TBS で大森美香脚本の連ドラが予定されているのである。それを見て先の疑問が胸の中で氷解するような気がした。第八章までは虚しかった、と先述したがそれはハルカ繋がりに限定した話で、実は第八章には「きみはペット」(2003/TBS/大森美香脚本)のエピソードが強引に入れてある。これを併せて考えるとCXはよほど TBSに気を遣っているとみえる。

 疑は解けたが同時に不安も募るのである。別稿でも書いたが向田邦子賞を獲得した「不機嫌なジーン」の頃には彼女の仕事は既に「風のハルカ」と同時進行していたはずで、今また名前も表に出せないようなハードスケジュールになっているというのは尋常ではない。彼女のような天才の24時間は私のような凡人の2400時間くらいに相当するのかもしれないが、それでもオーバーワークには違いない。それはどこかで破綻する危険をはらんでいるのはないだろうか。それが杞憂に終わることを祈りつつ2008年の TBS「エジソンの母」に期待する。

(2007.12.23)


[映画、ドラマなど]

「とらばいゆ」 / 2007-11-17 (土)

 昨今何かと不祥事の多いNHK、B-CASなどという怪しげなモノを強要してくるNHK。そんな糞食らえのNHKだが、それでも私はNHKに受信料を払ってもいいと思っている。それはなんといっても高品質の番組が多いからである。民放各局はコマーシャリズムを採らざるをえないために番組の質は二の次三の次と後回しにされて、ついには無視される傾向にある。対してNHKは一部の番組を除いて大衆迎合に陥ってはいない。否、その点ではむしろ逆で、国民に対して文化的な刺激を与えようとする強い意識があるように思えるのである。もちろんそれは事実上の国営放送としての国民誘導的なものなのかもしれないが、それは民放にだってある。むしろそれが露骨なのは民放のほうだと思う。

 BS-2で平日の夜やっている映画の枠は危険である。うかつに視はじめてしまうと間違えなく2時間釘付けにされてしまう。この枠で放送される映画に駄作はないからである。一瞬たりとも目が離せないような映画ばかりである。売れた作品ならレンタル屋さんに行けば置いてあるから別にいま視なくてもいいと思えるのだが、この枠ではマイナーな作品が多い。こんなにいい映画は今ここで視ておかないともう視る機会はないかもしれないと思うとつい視てしまう。視はじめるとCMがないからトイレにも行けない。そして見終ると興奮して眠れない。本当に危険である。体に悪い。だからなるべく視ないようにしているのだが、この前ついに捕まってしまった。「とらばいゆ」である。前日が「花とアリス」だった。「花とアリス」はチャンネルを替えていたらたまたま目に入ってきたのだが、あまりにも危険な香りがしたのですぐ替えた。どうでもいい他局の番組で飯を食いながら時間を潰してラストシーンだけ視た。やっぱり凄かった。ちゃんと視れば良かったと後悔した。翌日晩飯の弁当を開けながらテレビをつけたらちょうど「とらばいゆ」が始まったところだった。もう釘付けである。

 枕が長くなりすぎたので粗筋は書かない。姉妹のプロの将棋指しが繰り広げるラブコメであるとだけいっておく。

 最近の日本の映像芸術は色について敏感になっているように思う。その色の使いかたという点でこの「とらばいゆ」は突出したものがあるのではないだろうか。この映画はもちろんカラーフィルムで撮影されているけれど出てくる色は、黒、白、赤、青、の四色しかないのである。この四色の組合せが、明と暗、優と劣、鋭と鈍などを表現し、あるいは伏線を張り、あるいは暗喩に使われ、観るものを次の展開へと導いてくれている。優れた映像作品には必ず画面に緊張感がある。「とらばいゆ」もまたそうであり、この四色限定表現はその緊張感の大きな源になっていると思われる。

 脚本が実によく練れている。姉のアサミが夫カズヤと暮らす高級マンションのダイニングキッチンが主舞台であるが、そこに妹のリナとその彼氏ヒロキの四人が入れ替わり立ち変わり登場する。ヒトは習慣を持ちやすい。特に日本人はそうかもしれない。一度型が決まるとそれを崩すのには然るべきワケがいる。だがこの映画では登場人物の着席位置がそのつど微妙に変わって行く。それが面白い。この変化の意味は一回観た程度ではわからないので、たぶん見直すたびに新しい発見があるに違いない。観れば観るほど味が出てくるだろう奥行きの深さを感じさせる。

 誰かが撮影が不安定で素人臭いというようなことを書いていたが、それには誤解があるように思える。最初にこの四人が顔を合わせるシーンではたしかにカメラが安定していないしアングルもふわふわ動いて落ち着かない。だがそれは手持ちカメラがヘタクソなのではなくてわざと揺らせて撮っているのである。これからこの四人が起こすめちゃくちゃな痴話ゲンカを撮影の揺らぎによって暗喩している訳で、観る側の不安を煽って画面に引き込む巧みな演出だ。

 この作品は繰り返しの手法を基本構造に据えていて、その原点になるシーンが鮮烈である。ダイニングキッチンの奥の部屋に赤いソファーがあるのだが、カズヤが夜遅く帰宅すると必ずアサミが黒いコートにくるまって赤いソファーで眠っているのである。猫のように。赤と黒。この色使いが、眠ってはいてもそこに安らぎはないことを表現している。そしてこの同じ構図のシーンに戻るたびに、カズヤの起こしかた、アサミの目覚めかたがそのつど少しずつ変化していくのである。これを観てエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」を思い出した。「戦艦ポチョムキン」では王宮の屋根に据えられた三つの体位の獅子の像を順番に写して眠れる獅子を立ち上がらせることで民衆が蜂起していく様を象徴していた。「とらばいゆ」の場合は、アサミの目覚めかたが彼女の追い詰められて行く様を表現している。最初は猫だったアサミは最後には狼のようになるのである。

 アサミはB級リーグの最終戦でここで負けるとC級に降格になるという大一番に妹のリナを相手にするのだが、その盤面に向かう姿が強烈なのだ。黒いタートルネックのニットのセーターが痩身を際立たせて鬼気迫るものがある。飢えた狼とはこういう感じなのではないかと思わせる。並の撮影ではこの絵は撮れないだろう。

 キャスティングも見事である。結婚以来負けが込んでどんどんギスギスしていくアサミの瀬戸朝香がラストシーンでいい笑顔を見せてくれる。その夫カズヤの塚本晋也、実にいい味が出ている。エリートサラリーマンにはどうしても見えないところが難点なのだが、左遷されてしまうのでそこもまあ納得できる。妹役の市川実日子はまさにはまり役。姉妹の師匠役の大杉漣は変幻自在の潤滑油としての役どころでここが機能しないと全体が成り立たない。そんな難しい役をさりげなくこなしている。この師匠が姉妹の対決中に青い帽子をかぶったヒロキと缶コーヒーをやりとりするシーンは見所のひとつである。どちらが勝つかは青い帽子のヒロキが赤、青どちらのコーヒーを選び、どちらを飲むことになるかで暗示されているからだ。

 とらばいゆ=Travailは、仕事、苦労という意味のほかに産みの苦しみという意味もあるらしい。脚本・監督の大谷健太郎の意図は、この産みの苦しみということころにありそうである。それはラストシーンでしっかり描かれている。似た者姉妹ということをさんざん強調しておいて、産みの苦しみを終えたアサミと未経験のリナが最後は異質な存在として描かれる。このラストシーンはなぜか必ずしも評判が良くないようだが私には不評の理由が分からない。無理な大団円にしなかたったところにこの映画の真骨頂があるように思えるのだ。

 このように緻密にして表現力豊かな質の高い作品を観てしまうとただ派手なだけのハリウッド映画のバカバカしさが改めて感じられてしまう。しかし一方で、いかに良くできているからといってこういう生活臭の漂う痴話ゲンカがモチーフの映画が大衆ウケするはずはなく、そんな映画をやってくれるNHKはやはり貴重な存在だといわざるを得ないのである。

(2007.11.17)