[映画、ドラマなど]

OVA版 機動警察パトレイバー 第5、6話「二課の一番長い日」 / 2007-09-04 (火)

 先日、出張先のホテルでテレビを見ていたら、NHKーBS2で機動警察パトレイバーというアニメをやっていた。何でもアニメ監督の押井守という人の特集番組だそうである。仕事を終えてホテルへ戻り、そろそろ寝ようかという時分に毎晩やっていて「うる星やつら」とかドロンジョ様とかを寝しなにぼんやり見ていた3日目くらいがそのパトレイバーだった。番組では第1話と5,6話を取り上げて放送しながら合い間にインタビューを入れるという仕立てだった。アニメにもロボット物にも興味のない私には第1話は退屈だったが、第5話と6話には興味を惹かれた。

 第5話と6話は前・後編になっており、2話でひとつの脚本である。およその筋立ては以下の通り。

 時は1988年、警察の特殊車両2課だけに配備されていたパトレイバーなる人型ロボットを高性能化したものが極秘に軍用に製作されることになった。そしてその納入機を手に入れた陸上自衛隊の部隊がクーデタを起こし首都を制圧してしまう。時はあたかもLIMPAC(日米韓合同軍事演習)の最中の出来事である。不審な動きを事前に察知していた特車2課第二小隊長後藤は第一小隊長の南雲しのぶに協力を求めたうえ、自身は秘密裏にクーデタ軍との対決に動き出す。しかしなんとクーデタ軍は核兵器を持っているらしい、というのである。

 自衛隊のクーデタというのは一見奇抜なようで実は大いにありえる話なのである。実際、公安警察の伝家の宝刀である破壊活動防止法の適用第1号は、自衛隊のクーデタ計画を未遂に終わらせたものだったし、三島由紀夫の割腹自殺はクーデタ計画をなかなか実行に移さない幕僚たちに絶望したためとも、鼓舞するためだったとも言われている。番組中のインタビューで押井守は、このアニメはリアルがコンセプトだった、というようなことを語っていたが、パトレイバーの脚本はこうした自衛隊の歴史を良く調べたうえで書かれているはずだと思われる。

 だから私は自衛隊のクーデタということにはさほど驚かなかったが、後藤から叛乱軍への対応を依頼された第一小隊長の南雲しのぶが叛乱軍に対して呼びかけたセリフには強い違和感を感じた。

 「戦闘になれば我々も警視庁の名誉にかけて死力を尽くして戦う!この場で血が流れれば全国30万の警察官は最後の一人まで諸君らを敵に回して戦うだろう!」

 まるで太平洋戦争真っ最中、一億総臣民の精神が漲っているようなセリフではないか。このアニメって何が言いたいの?!って思わずドン引きしてしまった。しかし一言一句にいちいち反応して頭に血が上ってしまっては作品の意図を見失ってしまうおそれがある。とりあえずは先へ進もう。

 ストーリーの展開では、叛乱軍はメッセージをなかなか発しない。数日経ってようやく『権力を渡せ』という程度の要求が出るものの、このクーデタがどのような動機に基づくものなのかは明らかにならない。しかしテレビには「思想的指導者」として甲斐某の名と写真が映る。この「思想的指導者」の五文字を見落としてはいけない。つまりこのクーデタは発展途上国とかでありがちな権力奪取そのものが目的ではなく、明確な思想的背景をもつものなのだと制作サイドは言っているわけだ。しかしその「思想」がどんなものなのかは最後まで謎として伏せられてゆく。

 桜田門の南雲しのぶが警察上層部の退却命令に逆らい叛乱軍と真っ向から対峙しつつある中、後藤は巡航核ミサイルが叛乱軍の手によって鹿島灘を運航されつつあることを掴み、ひそかに運び出した最後の1機のパトレイバーをヘリコプターで差し向ける。そして学生時代の先輩である甲斐某と虚虚実実の駆け引きの末、射程1500kmの巡航ミサイルのランチャーをパトレイバーで鷲掴みにして発射を阻止する。その時ランチャーの中から現れたものはLIMPACの中で甲斐たちが手に入れたアメリカ軍の巡航ミサイルだったのである。後藤のパトレイバーにミサイルを掴まれてしまった甲斐はその時点であっけなく敗北を宣言してしまう。

 このラストシーンで謎が解き明かされた。叛乱軍の思想的背景とは、日本はアメリカの核の傘の下で安全保障を実現するという「思想」なのである。巡航ミサイルが国産ではなくアメリカ軍のものであること、そして叛乱軍がそれを拠り所にしていることが雄弁にそれを語っている。自衛隊用に新開発されたレイバーはあくまでアメリカの核の傘の下でのみ意味を持つ存在に過ぎなかったのである。ミサイルの射程距離にも注目したい。鹿島灘から1500kmというのは平壌が射程内に入っている。要するに1960年以来二十八年の間(この作品は1988年発表)日本人の日常であり続けた日米安保体制そのものが叛乱軍の思想だということだ。警察の非常線を突破するとき以外には叛乱軍が一発の銃弾も発していないのはその二十八年間の日常を表現しているし、警察上層部が南雲しのぶに対して叛乱軍には抵抗せずに退却しろと命令を下したのもそれと矛盾しない。また叛乱軍のみならず自衛隊の他の部隊の反応もきわめて鈍いものとして描写されている。

 私はここまでは制作サイドの意図を正しく解釈できているという自信がある。問題はこの先である。そしてここから先は憶測の域を出ないのだがあえて拙い解釈を披瀝したい。

 ではその戦後日本の日常がなぜ自衛隊のクーデタとして表現されなければならなかったのか。

 クーデタとは鎮圧され否定されるべきものとして私たちは捉える傾向がある。少なくとも戦前の515事件、226事件という軍部によるクーデタは日本をあの忌まわしい全体主義へと引きずり込んだ歴史としてほとんどの人は捉えている。つまりクーデタとは禁忌を侵すエピソードに他ならない。

 こうして考えてみるとこの脚本が訴えているのは、昨今とみに議論がかまびすしい憲法第九条、すなわち自衛隊の存在そのものの違憲性ではないかという気もしてくる。さらに米軍+韓国軍との連携が限りなく集団的自衛権への抵触に近づいているという問題意識もあるように思える。すなわち自衛隊のクーデタとして表現されるべき理由は、自衛隊が憲法第九条に違反しているという暗示をせんがためであると解釈することも可能である。

 しかし作品全体からそういうメッセージが発っせられているかというとそういう印象はまったくない。単にそれだけではあまりに浅薄である。この作品には観る者を惹きつける強烈な引力がある。自衛隊の違憲性は誰の目にもあまりにも明らかであるため、それを問うというだけではこれだけの引力を出すのは難しかろうと思われるのである。この作品にはもう少し別な、さらなる奥行きがある。

 ここで先に引用した南雲しのぶの強烈なキャラクタとセリフを想起したい。この作品のキャラクタ設定の基本は、後藤と南雲を二人で一人、写像と実像の関係におくことによって構成されている(さらに野明と遊馬も同様かもしれない)。後藤が叛乱軍の思想を暴いているのなら、叛乱軍に宣戦布告する南雲は叛乱軍の思想に対するアンチテーゼを叫んでいるに違いない。

 先に引用した南雲のセリフはおそろしく誇り高いものである。自らの誇りを守るためには命を捨てることも厭わない、その誇り高さは武士道のそれである。この可燃性のきわめて高い精神がかつてアジアに多大な惨禍をもたらしてしまったのであるが、いまこの「二課の一番長い日」のシナリオでは、後藤の手にによってアメリカの核の傘が否定され、その核の傘の下での軍事力=自衛隊(軍用レイバー)が否定されている。そしてその一方で叛乱軍に対峙する南雲が立っているその場所は、かつてその昔、攘夷浪士たちに井伊直弼が討たれた桜田門外にほかならないのである。

 新型レイバーと大小の火器で重武装する軍隊に、パトレイバーを奪われてもはやピストルと警棒しか持たない警察が戦いを挑もうとする構図は、あたかも欧州列強を相手に攘夷を敢行しようとする下級武士たちの構図の再現ではないか。幕末当時の武士の人口はおよそ30万だったという。南雲もまた全国30万警察官は……と言う。しかし1988年当時の警察官の実数は20万しかいないのである。この数の水増しは偶然であろうか。

 核兵器の傘などまっぴらごめんだ、軍隊もほんとうは要らない、いざとなれば我々も名誉にかけて死力を尽くして戦う、この国土で血が流れれば、老若男女ことごとく立ち上がって最後の一人まで戦おう、それでいいじゃないか、われら皆、尚武の国に生まれた武士の子なのだから……これが南雲と後藤のメッセージであるように私には思われてならないのだが、ヘッドギアの皆さんいかがですか。

 憲法第九条はアメリカ進駐軍が起草したのか、それとも日本人の誰かが発案したものなのか未だに議論は決着を見ない。おそらく今後永遠に答えはでないであろう。しかし誰が考えたかはもはや意味がない。憲法第九条は私たちが普段ぼやっとしている割には案外に過激なものであるらしい。そして案外に過激であるけれども多くの日本人の本音は案外こんなところにありはしないだろうか。

 かつて西郷隆盛は日本人の全てを薩摩藩士のような武士にしようと思ったらしい。その彼がいま草葉の蔭でどういう涙を流しているのか、私はとても気がかりなのである。

(2007.9.4)


[旅、歴史など]

大和三輪山 / 2007-08-18 (土)

 仕事で津へ出張になったので、大和へ足を延ばし三輪山へいってみた。交通は近鉄で伊勢中川経由の桜井下車である。桜井で駅を出るともうすぐそこに山が見えるので、車が通る大通りを避けて路地に入ってぶらぶらと山へ近付いていく。うしろに山塊が控えているため単独鋒というわけではないが大和盆地にひとつ突き出した山容はなだらかでまことに美しい。

 こちらはお上りサンだから地元の人にはすぐそれとわかるらしい。朝の野良仕事を終えて野菜を収穫してきた初老の婦人が声を掛けて下さった。道を教えていただいたが、おそらくその御婦人と行き会っていなくても山裾を目指していけば自ずと大神神社へ出るものとおもわれる。

 大神神社を出て右(北)へ回ってゆくと摂社がいくつもある。ひとつひとつ丁寧に参拝していては日が暮れるのでつい急ぎ足になるのだが、途中、奥津・中津・辺津のうちのひとつ辺津の磐座神社があるのでここはおさえておきたい。

 ほどなく狭井神社に出る。おりしも朝日を受けた千木が鳥居の注連縄の上に光輝き思わず神威を感じてしまったので、すかさず撮影したのだがこうして見ると上手く撮れたとは言いがたい。

 三輪山へ登るにはこの狭井神社の境内からしか許されていない。参拝を済ませ、茶髪の巫女さんに登拝したい旨を告げると姓名・所番地を尋ねられたうえ二時間以内に下山するよう念を押されて鈴の付いたたすきを渡される。

 下山した後で気がついたのだが拝殿の左手裏に三輪山から湧き出たご神水を汲みだして頂戴できるようになっているので、登るに先立ってここで喉を潤しておいた方が良かった。もちろん水は美味い。ただ私が登ったのは8月11日であったので少し温かった。

 狭井神社に参拝するひとは年寄りでもないかぎりみな山に登るのかと思っていたらそうでもないらしい。いっしょに居合わせた数名の人々のうちたすきを借り受けたのは私一人だった。蟻の門渡りのような登拝になるのかと思っていたので少し気持ちが良かった。時計を見たら午前11時ちょうどであった。

 三輪山は小さな山である。丘といってもよかろう。登ること自体は何程のことはあるまいと思っていた。しかしそれは甘かった。気温は30度を越えているであろう。繁みの中を登ってゆくので直射日光に晒されることはなかったがそのかわり風もない。体中の水分が全て出てしまうのではないかと思うほど大汗をかいた。普段の運動不足がいまさらのように後悔される。

 それでも最初のうちは良かった。登山道が沢づたいになっているのでまことに爽やかである。その沢を離れてからは眺望があるわけではなし、飲食は禁忌であるし、汗を拭いながらひたすら登るのみ。

 下調べしたところによるとこの山での挨拶は一般的な登山の挨拶とは異なるという。すなわち「コンニチワァ」ではないらしい。「よおお詣りぃ」とするのだという。わたしは謹直な人間であるからひたすらこれを守った。しかしすれ違うひと数名、みな「コンニチワァ」である。ちなみに下りではより多くのひととすれ違ったがみな「コンニチワァ」であり、私一人が「よおお詣りぃ」である。わたしは最後までこの挨拶を云い続けたがとうとう同じ言葉はもらえなかった。ちなみに最後の人から「下山道はそっちやないでぇこっちやでぇ」と指摘を受けた。そのときそのひとのなりをよく見たら野袴に竹箒を携えておられた。神官さんである。さすがにアホらしくなった。

 この山では撮影が一切許されていない。むろん私もそれにはしたがった。しかししばしば撮影したい衝動に駆られたのも事実である。

 そのひとつが頂上である。奥津の磐座が頂上にある。これは不思議であった。黒い巨岩がゴロゴロしているのである。山のてっぺんに丸い大きな岩がいくつも転がり重なっている。自然に析出したものか、あるいは人手で運び上げたのか、はたまたさざれ石が長い長い年月を経たあげく巌となったものか、見当が付かない。地質学の専門家ならあるいはわかるかもしれないが、なんと言うだろう、それを聞いてみたい。

 だが私が何より撮影したかったのは山道の地面である。中腹から山頂にかけて地は基本的に赤土なのだが、それにおびただしい砂鉄が混じっているのである。これを見ることができただけで十分来た甲斐があると思った。

 一説によるとこの山は縄文のころより信仰の対象となってきたという。だが私はそれは違うと思うのである。この山は鉄を産するがゆえに崇められるようになったのに相違あるまい。帰ってから調べてみると三輪山と製鉄にはやはり密接な関係があるらしい。問題はそれが大和王権と出雲や吉備、あるいは筑紫や越前といった国内他勢力、そして朝鮮半島との関係の中でどう位置づくかであろう。

 また磐座の岩が異様に黒いのも少し気になる。ひょっとしたらあの岩は鉄を含んではいないだろうか。砂鉄と鉄鉱石との関係は日本古代史にとってきわめて大きな意味を持つと聞く。

 下山したおりに時計を確認したら午後1時でちょうど2時間が経過していた。登りの途中で木の切株に腰を降ろして少し休んだのと、頂上で大阪から来たという人としばらく話し込んだので二時間というのはたぶん標準的な入山時間なのだと思われる。

 ともあれ狭井神社の門前の茶店で三輪素麺を食べてようやく人心地がついた。その茶店の付近に展望台がある。左から天香久山、畝傍山、耳成山の大和三山が見事に見渡せる。その後ろは葛城である。古代史ファンとしてはこれ以上の幸せはないと思った。

 が、幸せはまだ続くのである。

 箸墓古墳が近いのだ。山頂で大阪の人にそれを聞いて知っている。古墳と聞けばただでさえ血が騒ぐ。それが箸墓が近いと聞いたのだから棒のようになった足も不思議と前へ出るのである。

 山の辺の道が三輪山を沿っている。写真の腕が悪いのでよくわからないかもしれないが、左は寺門でその堀池にはうっすらと黄色い蓮の花が咲いている。右にもさまざまな夏の花が咲いている。古代とは少し違った風景かもしれないが、それでも山の辺の道は今もまだありそして風情に溢れている。昔よりも少し人の数が多いかもしれないけれど、この道ではまだ人々が季節を感じながら歩いている。これこそ守るべき宝物だ、と思った。

 箸墓へ行くために山の辺の道に別れを告げなければならない。後ろ髪を引かれつつ山の辺の道をそれて街中に入ると狭い路地は練塀と漆喰の家屋が続いており、真夏の昼下がりはまことに静かである。

 漆喰といえば名古屋近郊から津へかけては伝統的民家建築には黒漆喰を用いる場合がほとんどで寺院を除いて白漆喰はほとんど見かけない。だが伊賀あたりから白漆喰の家が多くなり始めて大和盆地に至ると黒漆喰は逆に少なくなるように思う。このあたりの事情はなにか文献がないものだろうか。

 箸墓古墳に眠る人は卑弥呼だという。そうかもしれないが、にはかには信じがたい。三輪という鉄の山を制する王者の墳墓とみるのが妥当なのではなかろうか。卑弥呼はシャーマンとしての権威はあっただろうが鉄の王というイメージではないように思われてならない。古墳の回りを巡りながらそんなことを考えたりした。

 箸墓の写真は何枚か撮った。しかし被写体が巨大過ぎて写真を見ただけではただ雑木林を写したかのようにしかみえない。本当は裏側に回ったり少し離れたりたりして全体像を納めたかったのだが、すでに予定の時間を過ごしている。

 最後に箸墓付近の農道から三輪山の姿を撮った。緩やかな傾斜地に並ぶ稲田のこの風景こそ、二千年の間われわれのDNAを形成してきた風景であろうと思われた。

(2007.8.18)