[旅、歴史など]

ハルマゲドンが近い / 2011-02-13 (日)

 2012年の12月に人類は滅亡するという噂があるという。一説には巨大小惑星が地球に激突するといい、またある説では地軸の逆転が起きて環境が激変するという。この手の話はいずれも根拠がなく、オカルト的な終末思想であるのだが、昨今の世界情勢を鑑みるに、最悪のシナリオとして核戦争の勃発がありうるのではないかと思えるので、ここに述べておきたい。

 2011年2月13日現在、エジプトではムバラク大統領がついに辞任に至った。今までエジプトは中東におけるアメリカの忠実な子分の筆頭だったといってよい。その親米のムバラクが倒された後のエジプトはどうなるのだろうか。イランのアフマディネジャド大統領が云うとおり、おそらくはイスラム主義勢力が台頭して反米の色彩が強くなると思われる。それはイスラエルにとっては西の防波堤が決壊することを意味する。東では米軍がイラクで悪逆非道の限りをつくしメチャクチャにしてしまった。米軍が撤退した後のイラクは当然のことながら強硬な反米反イスラエルの国になるだろう。イスラエルはもはや四面楚歌の状態に陥るわけである。そうなればイスラエルはアラブ諸国の圧力に屈服するのだろうか。いまイスラエルは重大な岐路に立たされている。ひとたび譲歩をすればアラブ諸国は矢継ぎ早に次の要求を繰り出してくるであろう。際限なき譲歩などしてはいられまい。ではあくまで対決路線を貫くか。現時点でさえイスラエルはヒズボラやハマースといった反イスラエル組織と一触即発の緊張状態にある。対決路線を貫くなら、近い将来必ず戦争となる。これまでイスラエルは戦争をすることで周辺諸国を抑え込んできた。現時点の軍事力ならイスラエルは圧倒的に強いだろう。しかし長期戦となったらどうだろうか。今のアメリカは天文学的な財政赤字を抱えている国家である。もはやアメリカにはイスラエルの後方兵站を担う力は期待できないとみるべきだ。アメリカの支援がなければ、イスラエルは緒戦では勝てても長期化すれば遠からず疲弊する。形勢が逆転してイスラエルが追い詰められたらどうなるか。無条件降伏はイスラエルという国家の消滅を意味する。それをいさぎよしとしないなら、最終兵器を使うしかない。核である。
 もちろん国境付近で核は使えない。そんなことをしたら敵も滅ぶが自分も滅ぶ。ではどこに核爆弾を落とすのか。現在のところ反イスラエルの急先鋒はイランである。仮にイランの首都テヘランを核攻撃するとすれば、およそ福岡→札幌間の距離がある。この距離と相手はまことに魅力的だ。だがイランの後背には核大国ロシアがいるのである。イランとロシアは近年とみに仲がよい。ヒロシマ・ナガサキ以降の核軍拡競争は、核を使えば必ず報復がある、という前提の下になされてきた。この定義が真ならテヘラン核攻撃の報復はロシアがすることになるだろう。しかしロシアが核ミサイルを発射する時は、その目標はイスラエルだけではないはずだ。報復の報復を恐れればロシアは当然アメリカやイギリスにも同時にミサイルを打つことになる。その先はあえて云うまでもない。

 以上に最悪のシナリオを提示した。このシナリオには日本は出てこない。ならば日本は無関係でいられるかというとそうではないと思うのでこれを書いている。以下は核ミサイルが飛び交う前の段階の話である。

 いざ中東でイスラエルの存亡を賭けた最終戦争が始まれば、かならずやアメリカは日本に派兵を要求してくるだろう。その時、私たちはどうするのか。イラク侵攻の時と同じくアメリカのいうとおりにのこのこと出かけてゆくのか。「今度も非戦闘地帯限定で……」などという間抜けたことは云っていられない。そのとき派兵するということは、イスラエルの味方についてアラブ諸国に攻撃をしかけるということになるのだ。いかがだろうか。あなたはイスラエルのために血で血を洗う戦争をしに中東へ行きたいですか。
 いま道行く人を片っ端からつかまえてこの質問をすれば、ほとんどの人は「そんなことはいやだ」と答えるだろう。「やろうやろう」と諸手をあげて賛成する人はあまり常識的でない人だと言わねばならない。ではどうするのか。どうすれば中東のハルマゲドンに巻き込まれずにいられるか。答えは一つである。どこかでアメリカとの関係を断つしかないのだ。これができないと中東でいずれ起こる大惨禍は私たちの頭の上に直接降りかかってくるのである。土壇場になってからでは遅い。今こそ自らの過去を想い起こそう。かつて、なんとかなるだろうの連続で問題をずるずると先送りした結果、出来したのがあの悲惨な太平洋戦争だったではないか。いま風雲は急を告げている。もう右も左もない。普天間基地の問題はアメリカと手を切る絶好のチャンスである。ここでお茶を濁していてはほんとうに危険なのである。繰り返す。アメリカと絶縁しなければ日本も地獄へ引きずり込まれる。

(2011.2.13)


[旅、歴史など]

大和三輪山 / 2007-08-18 (土)

 仕事で津へ出張になったので、大和へ足を延ばし三輪山へいってみた。交通は近鉄で伊勢中川経由の桜井下車である。桜井で駅を出るともうすぐそこに山が見えるので、車が通る大通りを避けて路地に入ってぶらぶらと山へ近付いていく。うしろに山塊が控えているため単独鋒というわけではないが大和盆地にひとつ突き出した山容はなだらかでまことに美しい。

 こちらはお上りサンだから地元の人にはすぐそれとわかるらしい。朝の野良仕事を終えて野菜を収穫してきた初老の婦人が声を掛けて下さった。道を教えていただいたが、おそらくその御婦人と行き会っていなくても山裾を目指していけば自ずと大神神社へ出るものとおもわれる。

 大神神社を出て右(北)へ回ってゆくと摂社がいくつもある。ひとつひとつ丁寧に参拝していては日が暮れるのでつい急ぎ足になるのだが、途中、奥津・中津・辺津のうちのひとつ辺津の磐座神社があるのでここはおさえておきたい。

 ほどなく狭井神社に出る。おりしも朝日を受けた千木が鳥居の注連縄の上に光輝き思わず神威を感じてしまったので、すかさず撮影したのだがこうして見ると上手く撮れたとは言いがたい。

 三輪山へ登るにはこの狭井神社の境内からしか許されていない。参拝を済ませ、茶髪の巫女さんに登拝したい旨を告げると姓名・所番地を尋ねられたうえ二時間以内に下山するよう念を押されて鈴の付いたたすきを渡される。

 下山した後で気がついたのだが拝殿の左手裏に三輪山から湧き出たご神水を汲みだして頂戴できるようになっているので、登るに先立ってここで喉を潤しておいた方が良かった。もちろん水は美味い。ただ私が登ったのは8月11日であったので少し温かった。

 狭井神社に参拝するひとは年寄りでもないかぎりみな山に登るのかと思っていたらそうでもないらしい。いっしょに居合わせた数名の人々のうちたすきを借り受けたのは私一人だった。蟻の門渡りのような登拝になるのかと思っていたので少し気持ちが良かった。時計を見たら午前11時ちょうどであった。

 三輪山は小さな山である。丘といってもよかろう。登ること自体は何程のことはあるまいと思っていた。しかしそれは甘かった。気温は30度を越えているであろう。繁みの中を登ってゆくので直射日光に晒されることはなかったがそのかわり風もない。体中の水分が全て出てしまうのではないかと思うほど大汗をかいた。普段の運動不足がいまさらのように後悔される。

 それでも最初のうちは良かった。登山道が沢づたいになっているのでまことに爽やかである。その沢を離れてからは眺望があるわけではなし、飲食は禁忌であるし、汗を拭いながらひたすら登るのみ。

 下調べしたところによるとこの山での挨拶は一般的な登山の挨拶とは異なるという。すなわち「コンニチワァ」ではないらしい。「よおお詣りぃ」とするのだという。わたしは謹直な人間であるからひたすらこれを守った。しかしすれ違うひと数名、みな「コンニチワァ」である。ちなみに下りではより多くのひととすれ違ったがみな「コンニチワァ」であり、私一人が「よおお詣りぃ」である。わたしは最後までこの挨拶を云い続けたがとうとう同じ言葉はもらえなかった。ちなみに最後の人から「下山道はそっちやないでぇこっちやでぇ」と指摘を受けた。そのときそのひとのなりをよく見たら野袴に竹箒を携えておられた。神官さんである。さすがにアホらしくなった。

 この山では撮影が一切許されていない。むろん私もそれにはしたがった。しかししばしば撮影したい衝動に駆られたのも事実である。

 そのひとつが頂上である。奥津の磐座が頂上にある。これは不思議であった。黒い巨岩がゴロゴロしているのである。山のてっぺんに丸い大きな岩がいくつも転がり重なっている。自然に析出したものか、あるいは人手で運び上げたのか、はたまたさざれ石が長い長い年月を経たあげく巌となったものか、見当が付かない。地質学の専門家ならあるいはわかるかもしれないが、なんと言うだろう、それを聞いてみたい。

 だが私が何より撮影したかったのは山道の地面である。中腹から山頂にかけて地は基本的に赤土なのだが、それにおびただしい砂鉄が混じっているのである。これを見ることができただけで十分来た甲斐があると思った。

 一説によるとこの山は縄文のころより信仰の対象となってきたという。だが私はそれは違うと思うのである。この山は鉄を産するがゆえに崇められるようになったのに相違あるまい。帰ってから調べてみると三輪山と製鉄にはやはり密接な関係があるらしい。問題はそれが大和王権と出雲や吉備、あるいは筑紫や越前といった国内他勢力、そして朝鮮半島との関係の中でどう位置づくかであろう。

 また磐座の岩が異様に黒いのも少し気になる。ひょっとしたらあの岩は鉄を含んではいないだろうか。砂鉄と鉄鉱石との関係は日本古代史にとってきわめて大きな意味を持つと聞く。

 下山したおりに時計を確認したら午後1時でちょうど2時間が経過していた。登りの途中で木の切株に腰を降ろして少し休んだのと、頂上で大阪から来たという人としばらく話し込んだので二時間というのはたぶん標準的な入山時間なのだと思われる。

 ともあれ狭井神社の門前の茶店で三輪素麺を食べてようやく人心地がついた。その茶店の付近に展望台がある。左から天香久山、畝傍山、耳成山の大和三山が見事に見渡せる。その後ろは葛城である。古代史ファンとしてはこれ以上の幸せはないと思った。

 が、幸せはまだ続くのである。

 箸墓古墳が近いのだ。山頂で大阪の人にそれを聞いて知っている。古墳と聞けばただでさえ血が騒ぐ。それが箸墓が近いと聞いたのだから棒のようになった足も不思議と前へ出るのである。

 山の辺の道が三輪山を沿っている。写真の腕が悪いのでよくわからないかもしれないが、左は寺門でその堀池にはうっすらと黄色い蓮の花が咲いている。右にもさまざまな夏の花が咲いている。古代とは少し違った風景かもしれないが、それでも山の辺の道は今もまだありそして風情に溢れている。昔よりも少し人の数が多いかもしれないけれど、この道ではまだ人々が季節を感じながら歩いている。これこそ守るべき宝物だ、と思った。

 箸墓へ行くために山の辺の道に別れを告げなければならない。後ろ髪を引かれつつ山の辺の道をそれて街中に入ると狭い路地は練塀と漆喰の家屋が続いており、真夏の昼下がりはまことに静かである。

 漆喰といえば名古屋近郊から津へかけては伝統的民家建築には黒漆喰を用いる場合がほとんどで寺院を除いて白漆喰はほとんど見かけない。だが伊賀あたりから白漆喰の家が多くなり始めて大和盆地に至ると黒漆喰は逆に少なくなるように思う。このあたりの事情はなにか文献がないものだろうか。

 箸墓古墳に眠る人は卑弥呼だという。そうかもしれないが、にはかには信じがたい。三輪という鉄の山を制する王者の墳墓とみるのが妥当なのではなかろうか。卑弥呼はシャーマンとしての権威はあっただろうが鉄の王というイメージではないように思われてならない。古墳の回りを巡りながらそんなことを考えたりした。

 箸墓の写真は何枚か撮った。しかし被写体が巨大過ぎて写真を見ただけではただ雑木林を写したかのようにしかみえない。本当は裏側に回ったり少し離れたりたりして全体像を納めたかったのだが、すでに予定の時間を過ごしている。

 最後に箸墓付近の農道から三輪山の姿を撮った。緩やかな傾斜地に並ぶ稲田のこの風景こそ、二千年の間われわれのDNAを形成してきた風景であろうと思われた。

(2007.8.18)