[映画、ドラマなど]

ロング・ラブレター〜漂流教室〜 / 2011-10-29 (土)

 長い間、観たい観たいと思っていた大森美香脚本のドラマ「ロング・ラブレター〜漂流教室〜」のDVDをようやく購入できた。たいていの場合、あまりに期待しているとかえってガッカリしてしまうものだが、本作品は嬉しいことに期待度を大きく上回ってくれた。本作品はたいへん緻密に作られており、そのすべてを解析することは難しいが、以下にまとまりがないながら、多少の分析を試みようと思う。

■ドラマの基本構造

 まず学校がなぜ未来世界へ漂流してしまったのかという説明がきちんとなされているところに注目したい。これを堅苦しいロジックを用いずにラブストーリーとして表現しているところが本作の出色の出来栄えであり、脚本家・大森美香の面目躍如たるところだ。

 ちなみに原作にはこの点の説明はまったくない。原作にはない説明を与えるには原作には無い設定を作り込む必要があるのだが、それがヒロインの元教師三崎結花(常盤貴子)と三崎の教え子の藤沢隆太(妻夫木聡)、そして三崎結花の恋人の新米教師浅海暁生(窪塚洋介)である。

 この三角関係はラブストーリーという形でこのドラマの表層を形成している。しかしじつはこのラブストーリーの三角関係の裏側にはまったく違ったプロットが仕組まれているのである。以下少々あらすじを書く。

 物語は三崎結花と浅海暁生の雑談風景で始まる。二人は書店で同じ本に同時に手を伸ばすという古典的な、しかしかなり羨ましい出会いによって一時のおしゃべりを楽しむわけだが、その晩、浅海暁生が携帯電話を盗まれることでお互いに連絡が取れなくなってしまう。そして「失われた時」を経た1年後、三崎結花は実家の花屋を手伝っている。ところが彼女の意志は花屋を継ごうというものでもなければ、再就職活動の片手間でというわけでもない中途半端なものなのだ。なぜならば彼女には1年半前に高校教師を辞めざるをえなくなったある事件へのこだわりがあったからである。その事件とはケンカ三昧に明け暮れる不良生徒藤沢が起こしたものであり、彼女はその藤沢をかばってやむなく退職したのだった。そんな三崎結花にかつての勤務先であった高校から花束の注文が届く。そしてこの時から時間軸が歪み始めるのである。 1年半ぶりに元の職場の校門をくぐった三崎結花は、図らずもそこの教師になっていた浅海暁生に再会する。しかし顔を合わせた時の状況は最悪で喧嘩別れしてしまう二人。そして年末年始を挟んだのちに三崎は藤沢から不意の電話を受ける。藤沢は、先生のおかげで寿司屋の板前として立ち直ったから、自分が握った寿司は最初に先生に食べて欲しいのだ、と訴える。嬉し涙に絶句する三崎。昼休みに公園で待ち合わせをした二人だが、三崎はその前に集金のために高校に立ち寄ってしまう。そして校庭で再び浅海暁生に対面する。藤沢との約束があるため一度は立ち去ろうとする彼女だが、浅海暁生にも1年前に電話したことを伝えたい彼女は、ふと立ち止まり踵を返す。そしてその瞬間大地震が起こり学校は未来世界へワープしてしまう。これが第1話の冒頭から学校が時空間を漂流してしまうまでのあらすじだが、その後、物語の進展とともに浅海暁生の正体が明かになる。実は彼は孤児院で育った天涯孤独の身の上なのだった。

 大森美香の脚本の底流にあるのは、引き裂かれた自己、であると思う。そしてその表現が観る者の心の琴線に触れるのであるが、この三崎結花の状況がまさにその引き裂かれた自己そのものだ。彼女は藤沢の起こした事件によって不本意ながら教職を辞めることになったが、それは藤沢の更生と成長が得られるまでは報われない。つまり板前として立ち直った藤沢との再会なくしては、過去は永遠に清算されず彼女は未来へ向かって歩き出せないのだ(三崎は古文の教師)。しかし一方では劇的な形で出会った浅海暁生に惹かれる自分も存在する。その浅海暁生という人格は肉親・家族を持っていない。すなわち彼には拘泥する過去もなければ守るべき現在もない。つまり彼は未来へのベクトルだけしか持たない特殊な存在なのである(最終話で彼だけが2002年の人たちに手紙が書けない)。この引き裂かれた状況が彼女をしばしの間校庭に留まらせたのである。「失われた時を求めて」過去へと回帰しようとする藤沢ベクトルとひたすら未来へ向かおうとする浅海ベクトル。この両者のベクトルの相反こそが時間軸を歪ませて学校を漂流させた原因なのだ。そしてこれがこの「ロング・ラブレター」というドラマの基本構造となっている。

 ここで色について触れたい。三崎結花の服装が象徴的である。紫のタートルネックのセーターの上に黄色いコート。「トキワ、センス悪過ぎ」とか、おっしゃって下さいますな。こういう不自然な配色が出てきた時にはどのような演出意図があるのか読み解きたい。

黄色 ピンク
ミサキフローリストのロゴ ミサキフローリストのクルマ
花束に入れかけて入れなかった薔薇(#1)→急に萎びた=時間軸が歪み始める 「運命の巡り合いがある」というおみくじで喜ぶ結花の振袖 結花が浅海に与えたつぼみのチューリップ(#1)
花束のポイントに入れられた花(#1)→大友唯が捨てられてしまうならと受け取った 美雪のタトゥーの花
未来へ行って戻ってきたハツ子のネイル(#5,#11)=#3では緑
結花のコート 結花のタートルネックのセーター 浅海とデートする時の結花のケープ(#11)
風化しなかった造花の薔薇(#3) 重雄が結花に届くと思ったと言いながら開けた花(#5) 夢で結花が浅海に与えたつぼみのチューリップ(#7)
未来で生き残るトメ子のマフラー(#10) トメ子のスウェット(#1)
人工受粉させた花壇の花(#6) 「幸せです」という結花の手紙の時の少女のスカートとその子が選んだ花(#11)
池垣農園に咲いた花(#11)

■ロング・ラブレターとは?

 楳図かずおの原作「漂流教室」は言わずと知れた名作、漫画史に残る傑作である。それは私にも分かる。しかし私のような凡人にはその作品から「ロング・ラブレター」というモチーフを言葉として紡ぎ出すことはできない。それができるのはやはり優れた作家・詩人をおいて他は無い。

 時空を超えた遠いところにいるのかもしれない我が子へ届けられる武器や薬はまさしくロング・ラブレターだ。クリスマスに渡し損ねた手編みのマフラーも、動脈硬化を起こしかけている老人が口にする古くさい価値観も、遅れて出した年賀状も、未来の誰が見るかも分からずに描かれた壁画も、シャーマンになる西あゆみもその口から出る言葉も、そして不条理にも未来世界へと飛ばされてしまった者たち自身もすべてはロング・ラブレターなのだ。「漂流教室」はそんなロング・ラブレターがぎっしりつまった作品だったのだ。それを大森美香は教えてくれた。原作のファンは数多くいるが、このことに気づいていた人は少ないに違いない。

 第9話で三崎結花はこんな言葉を口にする。「渡せなかった言葉とか気持ちとか、ずーっと信じてればいつか届くような気がするんだ、時間とか空間とか常識とか全部とばして、いつかきっと……」。このセリフは涙腺を刺激する。私たちは常日頃、胸の中に渦巻く感情を懸命に抑えながら生きている。その思いのほとんどは誰にも伝えられることなく日常は過ぎて行く。本当は伝えたほうがいいことも、伝えなければならないこともたくさんあるのはわかってはいる。でもそうしたことのほとんどは伝えられないまま時間は過ぎて行く。だからこのセリフはそんな自分に対するささやかな言い訳だ。自分では口にできないその言い訳を自分の代わりに語ってもらえるからこそ私たちはドラマという劇を観るのだろう。

 そしてこのセリフはラストシーンで、もう来るはずもない三崎をあてどなく待っている藤沢を訪ねるシーンへとつながる伏線になっている。彼女の黄色のコートは時間軸の歪みを象徴する色であると同時に、その先にある希望の色であり、別の世界とこの世界とを繋いでくれるロング・ラブレターの色なのだ。

■サバイバルについて

 原作ファンからの一番の批判は、原作はこんなホンワカしたラブストーリじゃなくてもっと過酷なサバイバルの世界を描いているんだゾ、という点にあるように思われる。もっともな批判である。しかしこのドラマの中で死んだ者のリストをよく見てほしい。

死んだ人 役職 殺した人 任命者
平沼剛(#4) 体育教師 若原
若原述之(#6) 学年主任英語 第2人類
侵入者たち3人(#7) 第2人類
二宮(#10) 柔道部員 第2人類
池垣(#8) 農林大臣 殉職 浅海(#5)
美雪(#10) 防衛大臣 殉職(第2人類) 三崎(#5)
結花(#11) マザー 殉職 浅海(#4,5)

 死んだ者は明確に2群に分けられる。ひとつは守るべき者、すなわち2002年から送り込まれた種子達=生徒たちに対して暴力をふるった者である。そしてもう一つのグループは殉職者たちである。農林大臣・池垣、防衛大臣・美雪、そしてマザー・結花。彼らはその役割を与えられて、それぞれ活き活きとその任務を遂行した。それにもかかわらず彼らには残酷にも死が用意されたのである。なぜだろうか。それは彼らが他者により任命されたからにほかならない。逆に生き残るものたちはどうだろうか。医師になった柳瀬はギリギリのところで自ら医師たることを決断した。川田咲子は総理大臣に立候補している。大友唯はこの荒れ果てた世界で生きてゆくという決意を持っている。高松翔はいつか元の世界に帰るという目標を持っている。生き残る者たちは、それが誰にも相手にされないものであっても、あるいはどんなに後ろ向きなものであっても必ず自発性を持っているのだ。これに対してどんなに充実した仕事ぶりをしようとも他者に推されてその任に就いた者には必ず死が待っているのである。

 第9話では畑に植えた野菜を間引きするエピソードが挿入されている。間引きとは本質的には優劣によってなされるものではない。生育にとって適正な距離を空けることにその目的がある。このドラマにおいてはその距離を計るモノサシが他者によって任命されたかどうかに設定されているということだ。大森美香はこうしたところにさりげなく、しかし明確に、冷徹な淘汰というサバイバルをキチンと仕込んでいるのである。

■ヒロインが死ななければならないわけ

 しかしその「間引き」のサバイバルは農林大臣・池垣、防衛大臣・美雪はともかく、完全なドラマオリジナルの主人公三崎結花が死ななければならない理由には直接結びつかない。死なせずにハッピーエンドにするシナリオだって作ることができたのではないだろうか、と考えるとやはりそうではない。なぜならば先述したとおり時間軸を歪ませて学校を未来世界へ漂着させてしまったのは三崎結花その人だからである。このドラマでは元の世界に帰る方法を見つけることのできた者は一人もいない。唯一まともに元の世界に帰ったのはハツ子の爪だけだ。でもほんとうは元の世界へ戻れる方法がたったひとつだけあるのだ。それはかつて三崎の教え子だった藤沢がその拳で開けた渡り廊下の穴を今度はMASH(三崎)が漲る思いを込めて叩くことだ。渡り廊下とは彼岸と此岸を結ぶ特殊な場所である。だからハツ子の腕がその穴から未来世界へ出てきたのだ。だがMASHがあの穴を叩いてしまうと学校は過去へ戻るかもしれないが、正しく2002年の1月7日午前11時15分に帰れるかどうかが疑わしい。ひょっとするとそれより1年半前の藤沢が事件を起こした時点に戻ってしまう可能が高いのではないかということになってしまう。

 物語の最後は未来へ来た者たちが自分たちが未来世界に蒔かれた種子であることを自覚して終わらなければならない。そのためにはシナリオとしては二度と再び時間軸が歪まないように固定化することが必要なのであり、それは三崎結花の死を以って初めて成立することなのである。彼女の死によってようやく漂流は終わり、砂漠の中に希望という黄色い花が結ぶのだ。

 しかしただ単に三崎結花を死なせればよいわけではない。彼女の死に際しては彼女がこだわった過去の清算という作業(=藤沢ベクトルの消化)を伴う必要がある。三崎が藤沢に会いに行ってお互いに「ずっと言いたかった」言葉を伝え合うシーンはその意味で欠くべからざるものだった。このシーンを三崎の死に際の夢とみるか、三崎の死霊が藤沢のもとに行ったとみるか、はたまた藤沢の悟りの幻と解釈するかは観る者に任されているわけだが、脚本の論理としてはこのように完結している。

■ラストシーン

 このドラマは結末がよくわからないという意見が多かったようである。その一つの理由は2002年に手紙を飛ばしたときの暁生の空想シーンであろう。これは第7話で瀕死の暁生が「もっと穏やかでもっと平凡な未来だってありえたはず」というセリフから夢を見るシーンが伏線になっている。手紙を飛ばしたときの暁生は三崎結花のいない砂漠で生きてゆくために、穏やかで平凡な未来を諦めるという形で結花に別れを告げているのである。このシーンでは結花は漂流を象徴する紫色のセータだけで希望の色である黄色のコートは着ていない。このことは漂流が終了したと同時に、暁生が結花という希望も失ったことが暗示されている。

 しかし2002年という過去に向けて放たれたロング・ラブレターは見事に時空を超えて、初めて二人が出会った日の晩に届いたのだ。その手紙はこなごなに破けてしまってちっとも読めないものだったけれどもその紙吹雪を手のひらに受け止めた暁生は昼間出会った三崎結花に再び会うべく決断して、今度はちゃんと電話をかける。そんなちょっとした「今を大事に」する気になったことで未来は変わる。たぶんきっとその後の二人は第7話で瀕死の暁生が夢見たような穏やかで平凡な未来を迎えることになったのであろう。最後に校門の外が緑に変わったのはそれを表している。

 2009年の今だって、依然として世界には大量の核兵器があり、戦争は絶えることなく続き、資源の浪費も砂漠化も加速度的に進行している。このドラマが放映された2002年よりももっと砂漠の未来は現実味を帯びてきている。だから私たちはもっと今を大事に、誰かから送られた心のこもった長い手紙を読みながら、もっと懸命に生きる必要があるだろう。 「きっと意味だってあるよ」そう思って「今を生きる」ことが世界を少しずつでも変えていくかもしれないから。

■第2人類について

 最後に第2人類について触れたい。死んだ者が2つの群に分類できることを先に述べたが、殉職者でない群のほうは基本的に下手人は第2人類である。これをみると第2人類は恐るべき敵であるようにみえるのだが実はそうではないのだ。(原作では未来人類と呼称している)第2人類に殺されたのはみな暴力的な人間達であることを鑑みるとむしろ彼らは悪を働く者たちを粛清していることがわかる。防衛大臣の美雪を殺したのも彼らだが、彼らが攻撃の対象にしたのは畑の野菜を一人で貪り喰う二宮だけだ。美雪は防衛大臣として学校に侵入してきた彼らを撃退しようとしたわけだが、彼らのほうからすれば攻撃してきたのは美雪であって、軽く自己防衛したら力の差がありすぎたために図らずも美雪が死んでしまったということに過ぎない。いつの世も「防衛」なる行為は恐ろしいものである。自らの蛮勇などを頼らずに言葉で応対していれば別の結果になったであろうに……。現に結花の遺体を抱いた暁生が涙ながらに絶叫して訴えたときは彼らは何らの敵意も示さず立ち去っていった。
 暁生に対して【「心」や「生きる意味」は、「生存」には、必要ない。】【弱い生き物は……滅びるしかない世界だ。】と返信してきた彼らは一つ大事な言葉を隠している。それは【不本意ながら】だ。彼らには心が、ヒトとしての心があり、沙漠の世界に過去から突然やってきた「弱い生き物」をヒトとして守ろうとする意志があるように思える。ただしそれはその「弱い生き物」たちが苦しい中にも秩序ある生活を営む限りにおいてなのであって、その秩序を自己中心的に暴力で壊す者に対しては彼らは一転して無慈悲な裁きを下す者となる。それが彼ら第2人類の「生きる意味」なのではなかろうかと思う。こんな不気味な生き物にもちゃんと存在理由を与えるところに愛にあふれた大森美香の世界観が感じられて好ましい。

 上記の文章は、2009年に書いたものだが、まとまりがなかったため公表していなかった。やや整理してこのたびアップするものだが、2011.3.11の原発事故があり、中東情勢の緊迫もあり、世界はさらに滅亡への勢いを速めている。その意味でも、このドラマは放映後約10年を経た今、いよいよその価値を増しているといわねばならない。

(2011.10.29)

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「かもめ食堂」 / 2011-01-09 (日)

 きわめて難解な作品である。これをお読みの方にお願いしたいのだが、この作品について明快に解説している文献があればぜひともご一報いただきたい。以下に拙いながら解釈の手掛かりを記すことにする。

 この作品の際立った特徴は、多くの人が指摘しているように、わからないことが多い、という点である。小林聡美が演じるかもめ食堂の店主サチエはなぜフィンランドを選び、なぜ食堂を開店することになったのか。サチエに突然話しかけられるミドリはなぜ遠くへ旅に出る必要があったのか。そしてなぜフィンランドに来たのか。原作とされる小説では書かれているらしいこれらのことがこの映画では謎として示される。観る者はまずこれらの謎と直面することとなる。しかも不明なことは不明として受け止めよ、とは言われていない。たった今思いついたこじつけだとか、目をつぶって指差したところがフィンランドだったとかいうセリフで示されていることは、そういうことはわざと説明していないのですよ、ということである。ならばその意図は何であるかを読み取らなければならない。どこに解明の鍵があるだろうか。最も注目すべきは小林聡美がプールで泳ぐシーンである。ストーリーとはまったく関係のないシーンがあるとすればそれは謎を解く鍵であるはずだ。それがプールのシーンである。

 プールのシーンは3回ある。最初はかもめ食堂の記念すべき第1号の入店客トンミヒルトネンが来る直前、つまり開店したもののまったくお客がいない状態のときである。肥った3人連れのご婦人がたはまだウィンドウ越しに冷やかしているだけだ。2回目はシナモンロールの匂いにつられて3人連れの肥ったご婦人がたがついに入店し常連客になった後、もたいまさこ登場の直前にある。そして最後はかもめ食堂が満員になった後のラストシーンである。

 このプールのシーンによって映画は3段階に分けられているのだが、この構造は実存主義哲学を映像的に表現したものなのではないかと思われるのである。

 私たちはいつも渾沌の中に投げ入れられている。好む好まざるを問わず私たちはいつも現実という海の中にいる。そして往々にして現実というやつはまことにやっかいなのである。そう思うことを実存主義では投企的自己認識と云ったりする。最初のプールのシーンでサチエは平泳ぎをしているがプールの中にはサチエ以外の人も何人かいてそれぞれサチエとは関わりなく泳いでいる。彼女がなぜここへやってきてなぜ食堂を開こうとしたのかを説明しないのはこの投企状態を表現しているわけである。

 次にトンミヒルトネン及びミドリと関わることによってサチエは対他的に自己を認識し、主体性を獲得する。それが二回目のプールのシーンで表現される。2回目でサチエはやはり平泳ぎをしているが、もはや鼻歌を歌いながら泳いでいる。しかもプールの中には彼女一人しかいない。彼女一人しかいないのは彼女が自由であることの表現だ。「人間は自由という名の刑罰に処せられている」というのはサルトルの有名な言葉だが、彼女はこの段階では選択によって主体的に自己を構築しているので刑罰を超克しており、それゆえ鼻歌を歌いながら泳いでいるのである。

 さらに第3の段階として、3人目の役者であるもたいまさこがそこへ加わることによってかもめ食堂は大きく発展してゆく。つまり舞台は社会的な拡がりを獲得してアンガージュマン(社会参加)を実現する。それが最後のプールシーンであり、サチエはすでに泳ぐことをやめてただ浮いているだけとなり、プールにいる多数の人々から祝福を受ける表現になってくる。

 いかがだろうか。牽強付会といってしまえばそれまでであるが、ひとつの解釈として成り立ってはいないだろうか。「かもめ食堂」に続く「めがね」では資本主義的価値感を木っ端微塵に打ち砕いてくれたスタッフたちが作った作品としてみればこうした解釈も有力ではなかろうか。

 しかし解釈は百人百様である。であれば一人で複数の解釈があってもよかろうかと思う。もうひとつの解釈を試みたい。プールのシーン以外にも鍵となるシーンはある。それはサチエが合気道の稽古をするシーンである。これも3回出現する。プールのシーンと異なるのは合気道の稽古シーンはストーリー展開の軸になっていることである。

 1回めは、サチエの稽古中にミドリが絡んでヨガのポーズをしてみせるのだが、そのシーンに続くのがマッティのコーヒーのエピソードである。かもめ食堂2番目の入店客マッティはサチエにコーヒーのおいしい淹れ方を指南する。主客が逆転してしまうのである。広告を出してはどうかというミドリの提案を蹴ったサチエだが、マッティのコーヒーには捻じ伏せられる。

 2回めも稽古中にミドリが絡んで来るのだが、今度はミドリが合気道を教えてくれと言い出す。一緒に稽古をし始めると突然サチエがひらめいてシナモンロールを作ってみようと思い立つ。これが転機になって肥ったオバチャンたちが店に入ってくる展開につながる。これが2番目のプールのシーンで総括されることは先に触れた。

 3回めは、メインメニューであるおにぎりが初めて注文されたあとに出現する。もはやミドリはじゃまをしてこなくなりひとりで稽古をする。その後はマサコが厨房に入り3人目のスタッフとなる展開である。

 古来、武道は禅と関係が深い。そうしてみると合気道の稽古が軸になって新たな境地が開けてゆくこのストーリーは禅の修行によって悟りを得てゆく過程であるとも見て取れる。2番目のプールで一人で鼻歌まじりに泳ぐシーンは最初に悟りを得た段階である。しかし悟りには何段ものレベルがあるらしい。最初に得た悟りは自分独りだけの悟りであって、まだ最終段階ではない。

 かつて達磨大師は山に入って座禅の修行をしたという。始めたときには小鳥や獣たちがただのヒトである彼を恐れて近寄らなかったらしい。しかしある時、達磨は悟りを得て、それ以来鳥や獣たちはあたかも彼がいないかのごとく振る舞うようになった。さらに修行を続けるとやがてさらに大きな悟りを得た。すると鳥や獣たちがただじっと座っている彼を慕って集まり遊ぶようになったという。この大悟が3番目のプールのラストシーンである。

 こうしてみると古今東西の哲学がこの作品で融和しているような気がしてくる。脚本を書いた荻上直子が禅や実存主義をどこまで意識したかしないかは本人に問い詰めでもしない限りわからないが、少なくともこれだけの解釈が可能な深みのある作品であることだけは間違いない。

 以下は蛇足である。トンミヒルトネン君から名前を漢字にしてくれとせがまれたミドリに「豚身昼斗念」と書かせた理由は、「肥った生き物」は愛されるべきという話の前提があること、もう一つは笑いをとるつもりだったことにあるだろう。が、少なからずフィンランドの人にはお世話になったのであるから、こういう侮辱をするべきではない。

(2011.01.09)


[映画、ドラマなど]

「エジソンの母」を8倍楽しむ方法 / 2008-01-28 (月)

 きょう娘に「ブログ更新しないの?」と尋ねられた。とっさに「ああ、あれはブログじゃないんだ、だからそんなに頻繁には更新しないんだよ」って答えて、そしてこう付け加えた。「それにあれには誰も言わないことだけを書くんだ」。嘘ではない。少なくともこのドラマ・アニメのカテゴリはそうだったのだ、たったさっきまでは……。つまりこれを書いている今、早くもその原則が崩壊しつつあるのである。娘のさりげない一言はかくも父親を動揺させるものであろうか。我ながら情けない。情けないが誘惑に勝てないので書いている。

 娘はTBSのドラマ「エジソンの母」について書かないのかと問うているのであろう、と思われる。「エジソンの母」はこれを書いている時点で既に3 話目が放映されているのだが、我が家では録画しておいて家族皆が揃ったときに視ているのでまだ第2話までしか視ていない。ただ予想通り視聴率は取れていない様子であり、なおかつドラマは出来がよろしい。初回から私の涙腺は決壊したし、第2話でも思わず目頭が熱くなった。テレビ番組の制作者というのは本当に気の毒な人々である。視聴率という化け物は制作者の努力や予算や情熱や技術といったものを必ずしも正しく評価してくれない。かといって手を抜いてしまえば必ず痛いしっぺがえしをくらう。こういう化け物を相手に懸命に戦う人々を私は尊敬せずにはいられない。

 話が逸れた。「エジソンの母」である。まだ2話しか視ていないので言えることが少ない。ただ一点、このドラマの見どころのひとつに役者の服装があることだけは間違いがない。1話目の出だしで伊東美咲は上下真っ黒の衣裳であった。そして婚約者に没個性を非難されてふられてしまうのである。と同時に花房少年が強烈な個性を持って登場してくるわけだが、この少年の衣裳は真っ赤なジャンパーに真っ白なマフラーである。担任教師としてこの花房少年にてこずりながら彼女は少しずつ没個性から脱却してゆく、というのがこの物語の流れであろう。だとすれば伊東美咲の真っ黒な衣裳は没個性を象徴しているので、彼女の服装は物語の進展につれて少しずつ変化するはずであり、事実、初回のラストでは両袖が茶色に変わっていた。さらに2話目でも前進と後退を繰り返しつつも基本的に黒から離れつつあった。

 さあ、予想屋の出番である。彼女の衣裳は最後は何色になるだろうか?私は伊東美咲は最後はピンクを着るだろうと思うのである。和製エジソン?の花房少年の赤と白はアンビバレンスを表している。つまり彼の強い好奇心とそれを抑えようとする世間の常識が極端に対立しているのである。教師としての役割は、彼の知的好奇心を育てつつ、ともすれば彼を排除したがる周辺の存在との融和を実現することである。したがって赤と白の混合色=ピンクが彼女の理想の色であり、それは同時に彼女自身の個性の主張になるはずなのだ。

 2話目の校長先生がどのような衣裳だったかご記憶にあるだろうか。白と赤の水玉模様の蝶ネクタイを付けていたのである。私の予想の根拠のひとつがここにもある。

 登場する役者たちがどういう場面でどういう衣裳を着ているかを注意するだけでこのドラマが数倍楽しくなることは請け合いだ。そして最後の衣裳の予想が当たるかどうかも気にしつつ、今後の展開を楽しみにしようではないか。

(2008.1.28)


[映画、ドラマなど]

「風のハルカ」と「ガリレオ」の限りなく淡くて濃い関係 / 2007-12-23 (日)

 先日CXのドラマ「ガリレオ」が放映終了した。このドラマにはいくつかの点で興味が惹かれるところがあった。撮影、色の使いかた、小道具の使いかた、ロケシーンの設定、科学の持つ負の側面を批判したシナリオ等々なかなか佳くできたドラマだったと思う。ただ惜しむらくは、脚本・演出スタッフの入れ替わりが激しかったせいか各話(章)ごとにムラが出てしまった。その点を除けば高視聴率にふさわしい作品だったと言えよう。

 ということでいろいろ書きたいことはあるのだが、ここでは誰も書かないだろうこの作品のひとつの妙について触れてみたい。

 まず配役である。主役のガリレオこと湯川の助手に渡辺いっけいが、ヒロインの刑事内海薫のリード役に真矢みきがそれぞれ配されている。渡辺のほうは昇進の見込みもなくなったうだつの上がらないキャラクタ設定であり、真矢のほうは頭脳明晰・沈着冷静な監察医という設定である。実はこの二人、2005 年BKの連続テレビ小説「風のハルカ」で、いつもすれ違うばかりの離婚夫婦を演じたカップルなのだ。「風のハルカ」で渡辺いっけいは夢を追いかけてフリータ生活を続ける情けない父親役であり、真矢みきは公認会計士としてバリバリとキャリアを積む母親役を演じたのであった。つまり「ガリレオ」は「風のハルカ」のキャラクタ設定とそれぞれの立ち位置をそのまま踏襲しているのである。

 もちろん渡辺いっけいも真矢みきもそういう役どころが得意な俳優であることは確かなので、単なる偶然かもしれないし、あるいは「風のハルカ」を視たCXサイドのスタッフが「ガリレオ」のキャスティングにそれを活かしただけかもしれない。だが、どうしてもそれだけではない何かの意図ないし必然があるように思えて私は「ガリレオ」を見続けた。

 第八章までは虚しくもそれは発見できなかったが、第九・最終章でついにそれは表れた。第九章の冒頭は、ある中年男性が宵闇の湖上にボートを浮かべているとそこに突然火柱が上がるというシーンで始まる。そしてその湖の名は「龍仁湖」。つまり湖から龍が登ったのである。これこそ「風のハルカ」第一週目の「青龍湖」から龍が登るエピソードをそっくり引用した脚本なのだ。さらにそのボートの主を演じたのは、升毅。「風のハルカ」でヒロインの伯父(=真矢みきの兄)を演じた俳優である。やはり「ガリレオ」は「風のハルカ」を強く意識したうえで制作されていたのだった。

 この第九章を視た私は最終章で渡辺いっけいと真矢みきがどうなるのかが気になった。ひょっとしたらこの二人が顔を合わせるシーンがあるのではないかとさえ思った。もしそんなことがあればそれは「風のハルカ」を知る者にとってはたいへんなボーナスだ。

 しかし実際はそういうシーンはなかった。じゃあなにもなかったのかというとそうではない。すばらしいラストシーンが用意されていたのである。

 シリーズを通して真矢みきはほとんどのシーンで菓子やパンを食べていた。その真矢みきが最後はひとりで酒を飲むのである。そして渡辺いっけいはというと最後はやはりひとりでクリスマスケーキを脇に抱えて歩いたのだ。つまり菓子が真矢から渡辺へと渡されたわけである。これはこの二人が切っても切れない縁にあることを示唆している。「風のハルカ」の主題は、家族の縁は切っても切れない絆でありたい、というものだった。渡辺いっけいと真矢みきの夫婦はすれ違いの末に離婚してしまい、娘たちの願いや努力も虚しくついに復縁には至らない。「ガリレオ」でクリスマスの晩をそれぞれひとりで過ごした二人のその光景は、「風のハルカ」で復縁には至らない二人を象徴したものだった。しかしその二人は復縁こそしないものの、一年に一回は集まって家族として食事をすることを誓って「風のハルカ」は終わる。その誓いが「ガリレオ」ではケーキのバトンタッチで表現されているのである。全章を通して真矢に菓子を食べさせ続けたのはこのラストシーンへの伏線だったのだ。見事というほかない。そう考えると最終章でこの二人が直接顔を合わせるような余計なボーナスなどがあったらすべてはぶち壊しなのである。

 ではなぜ「ガリレオ」は「風のハルカ」を引き継いだのか。それは分からない。ここから先は邪推である。読まれる方はこれが邪推であることを念頭に置かれたい。

 「風のハルカ」は言うまでもなく大森美香が書き下ろした作品だ。彼女の最高傑作といっていい。その大森美香は他ならぬCXに育てられた人である。私は「ガリレオ」のクレジットロールを毎回つぶさに見たのだが大森美香の名はついぞ見つからなかった。しかしこれほど濃密に「ガリレオ」が「風のハルカ」と連続している以上、「ガリレオ」に大森美香が関与していないはずがないのである。何か名前が出せない仔細があったのではなかろうか。

 1月から始まる民放ドラマの一覧を眺めていて気がついた。TBS で大森美香脚本の連ドラが予定されているのである。それを見て先の疑問が胸の中で氷解するような気がした。第八章までは虚しかった、と先述したがそれはハルカ繋がりに限定した話で、実は第八章には「きみはペット」(2003/TBS/大森美香脚本)のエピソードが強引に入れてある。これを併せて考えるとCXはよほど TBSに気を遣っているとみえる。

 疑は解けたが同時に不安も募るのである。別稿でも書いたが向田邦子賞を獲得した「不機嫌なジーン」の頃には彼女の仕事は既に「風のハルカ」と同時進行していたはずで、今また名前も表に出せないようなハードスケジュールになっているというのは尋常ではない。彼女のような天才の24時間は私のような凡人の2400時間くらいに相当するのかもしれないが、それでもオーバーワークには違いない。それはどこかで破綻する危険をはらんでいるのはないだろうか。それが杞憂に終わることを祈りつつ2008年の TBS「エジソンの母」に期待する。

(2007.12.23)


[映画、ドラマなど]

「とらばいゆ」 / 2007-11-17 (土)

 昨今何かと不祥事の多いNHK、B-CASなどという怪しげなモノを強要してくるNHK。そんな糞食らえのNHKだが、それでも私はNHKに受信料を払ってもいいと思っている。それはなんといっても高品質の番組が多いからである。民放各局はコマーシャリズムを採らざるをえないために番組の質は二の次三の次と後回しにされて、ついには無視される傾向にある。対してNHKは一部の番組を除いて大衆迎合に陥ってはいない。否、その点ではむしろ逆で、国民に対して文化的な刺激を与えようとする強い意識があるように思えるのである。もちろんそれは事実上の国営放送としての国民誘導的なものなのかもしれないが、それは民放にだってある。むしろそれが露骨なのは民放のほうだと思う。

 BS-2で平日の夜やっている映画の枠は危険である。うかつに視はじめてしまうと間違えなく2時間釘付けにされてしまう。この枠で放送される映画に駄作はないからである。一瞬たりとも目が離せないような映画ばかりである。売れた作品ならレンタル屋さんに行けば置いてあるから別にいま視なくてもいいと思えるのだが、この枠ではマイナーな作品が多い。こんなにいい映画は今ここで視ておかないともう視る機会はないかもしれないと思うとつい視てしまう。視はじめるとCMがないからトイレにも行けない。そして見終ると興奮して眠れない。本当に危険である。体に悪い。だからなるべく視ないようにしているのだが、この前ついに捕まってしまった。「とらばいゆ」である。前日が「花とアリス」だった。「花とアリス」はチャンネルを替えていたらたまたま目に入ってきたのだが、あまりにも危険な香りがしたのですぐ替えた。どうでもいい他局の番組で飯を食いながら時間を潰してラストシーンだけ視た。やっぱり凄かった。ちゃんと視れば良かったと後悔した。翌日晩飯の弁当を開けながらテレビをつけたらちょうど「とらばいゆ」が始まったところだった。もう釘付けである。

 枕が長くなりすぎたので粗筋は書かない。姉妹のプロの将棋指しが繰り広げるラブコメであるとだけいっておく。

 最近の日本の映像芸術は色について敏感になっているように思う。その色の使いかたという点でこの「とらばいゆ」は突出したものがあるのではないだろうか。この映画はもちろんカラーフィルムで撮影されているけれど出てくる色は、黒、白、赤、青、の四色しかないのである。この四色の組合せが、明と暗、優と劣、鋭と鈍などを表現し、あるいは伏線を張り、あるいは暗喩に使われ、観るものを次の展開へと導いてくれている。優れた映像作品には必ず画面に緊張感がある。「とらばいゆ」もまたそうであり、この四色限定表現はその緊張感の大きな源になっていると思われる。

 脚本が実によく練れている。姉のアサミが夫カズヤと暮らす高級マンションのダイニングキッチンが主舞台であるが、そこに妹のリナとその彼氏ヒロキの四人が入れ替わり立ち変わり登場する。ヒトは習慣を持ちやすい。特に日本人はそうかもしれない。一度型が決まるとそれを崩すのには然るべきワケがいる。だがこの映画では登場人物の着席位置がそのつど微妙に変わって行く。それが面白い。この変化の意味は一回観た程度ではわからないので、たぶん見直すたびに新しい発見があるに違いない。観れば観るほど味が出てくるだろう奥行きの深さを感じさせる。

 誰かが撮影が不安定で素人臭いというようなことを書いていたが、それには誤解があるように思える。最初にこの四人が顔を合わせるシーンではたしかにカメラが安定していないしアングルもふわふわ動いて落ち着かない。だがそれは手持ちカメラがヘタクソなのではなくてわざと揺らせて撮っているのである。これからこの四人が起こすめちゃくちゃな痴話ゲンカを撮影の揺らぎによって暗喩している訳で、観る側の不安を煽って画面に引き込む巧みな演出だ。

 この作品は繰り返しの手法を基本構造に据えていて、その原点になるシーンが鮮烈である。ダイニングキッチンの奥の部屋に赤いソファーがあるのだが、カズヤが夜遅く帰宅すると必ずアサミが黒いコートにくるまって赤いソファーで眠っているのである。猫のように。赤と黒。この色使いが、眠ってはいてもそこに安らぎはないことを表現している。そしてこの同じ構図のシーンに戻るたびに、カズヤの起こしかた、アサミの目覚めかたがそのつど少しずつ変化していくのである。これを観てエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」を思い出した。「戦艦ポチョムキン」では王宮の屋根に据えられた三つの体位の獅子の像を順番に写して眠れる獅子を立ち上がらせることで民衆が蜂起していく様を象徴していた。「とらばいゆ」の場合は、アサミの目覚めかたが彼女の追い詰められて行く様を表現している。最初は猫だったアサミは最後には狼のようになるのである。

 アサミはB級リーグの最終戦でここで負けるとC級に降格になるという大一番に妹のリナを相手にするのだが、その盤面に向かう姿が強烈なのだ。黒いタートルネックのニットのセーターが痩身を際立たせて鬼気迫るものがある。飢えた狼とはこういう感じなのではないかと思わせる。並の撮影ではこの絵は撮れないだろう。

 キャスティングも見事である。結婚以来負けが込んでどんどんギスギスしていくアサミの瀬戸朝香がラストシーンでいい笑顔を見せてくれる。その夫カズヤの塚本晋也、実にいい味が出ている。エリートサラリーマンにはどうしても見えないところが難点なのだが、左遷されてしまうのでそこもまあ納得できる。妹役の市川実日子はまさにはまり役。姉妹の師匠役の大杉漣は変幻自在の潤滑油としての役どころでここが機能しないと全体が成り立たない。そんな難しい役をさりげなくこなしている。この師匠が姉妹の対決中に青い帽子をかぶったヒロキと缶コーヒーをやりとりするシーンは見所のひとつである。どちらが勝つかは青い帽子のヒロキが赤、青どちらのコーヒーを選び、どちらを飲むことになるかで暗示されているからだ。

 とらばいゆ=Travailは、仕事、苦労という意味のほかに産みの苦しみという意味もあるらしい。脚本・監督の大谷健太郎の意図は、この産みの苦しみということころにありそうである。それはラストシーンでしっかり描かれている。似た者姉妹ということをさんざん強調しておいて、産みの苦しみを終えたアサミと未経験のリナが最後は異質な存在として描かれる。このラストシーンはなぜか必ずしも評判が良くないようだが私には不評の理由が分からない。無理な大団円にしなかたったところにこの映画の真骨頂があるように思えるのだ。

 このように緻密にして表現力豊かな質の高い作品を観てしまうとただ派手なだけのハリウッド映画のバカバカしさが改めて感じられてしまう。しかし一方で、いかに良くできているからといってこういう生活臭の漂う痴話ゲンカがモチーフの映画が大衆ウケするはずはなく、そんな映画をやってくれるNHKはやはり貴重な存在だといわざるを得ないのである。

(2007.11.17)