[映画、ドラマなど]

「かもめ食堂」 / 2011-01-09 (日)

 きわめて難解な作品である。これをお読みの方にお願いしたいのだが、この作品について明快に解説している文献があればぜひともご一報いただきたい。以下に拙いながら解釈の手掛かりを記すことにする。

 この作品の際立った特徴は、多くの人が指摘しているように、わからないことが多い、という点である。小林聡美が演じるかもめ食堂の店主サチエはなぜフィンランドを選び、なぜ食堂を開店することになったのか。サチエに突然話しかけられるミドリはなぜ遠くへ旅に出る必要があったのか。そしてなぜフィンランドに来たのか。原作とされる小説では書かれているらしいこれらのことがこの映画では謎として示される。観る者はまずこれらの謎と直面することとなる。しかも不明なことは不明として受け止めよ、とは言われていない。たった今思いついたこじつけだとか、目をつぶって指差したところがフィンランドだったとかいうセリフで示されていることは、そういうことはわざと説明していないのですよ、ということである。ならばその意図は何であるかを読み取らなければならない。どこに解明の鍵があるだろうか。最も注目すべきは小林聡美がプールで泳ぐシーンである。ストーリーとはまったく関係のないシーンがあるとすればそれは謎を解く鍵であるはずだ。それがプールのシーンである。

 プールのシーンは3回ある。最初はかもめ食堂の記念すべき第1号の入店客トンミヒルトネンが来る直前、つまり開店したもののまったくお客がいない状態のときである。肥った3人連れのご婦人がたはまだウィンドウ越しに冷やかしているだけだ。2回目はシナモンロールの匂いにつられて3人連れの肥ったご婦人がたがついに入店し常連客になった後、もたいまさこ登場の直前にある。そして最後はかもめ食堂が満員になった後のラストシーンである。

 このプールのシーンによって映画は3段階に分けられているのだが、この構造は実存主義哲学を映像的に表現したものなのではないかと思われるのである。

 私たちはいつも渾沌の中に投げ入れられている。好む好まざるを問わず私たちはいつも現実という海の中にいる。そして往々にして現実というやつはまことにやっかいなのである。そう思うことを実存主義では投企的自己認識と云ったりする。最初のプールのシーンでサチエは平泳ぎをしているがプールの中にはサチエ以外の人も何人かいてそれぞれサチエとは関わりなく泳いでいる。彼女がなぜここへやってきてなぜ食堂を開こうとしたのかを説明しないのはこの投企状態を表現しているわけである。

 次にトンミヒルトネン及びミドリと関わることによってサチエは対他的に自己を認識し、主体性を獲得する。それが二回目のプールのシーンで表現される。2回目でサチエはやはり平泳ぎをしているが、もはや鼻歌を歌いながら泳いでいる。しかもプールの中には彼女一人しかいない。彼女一人しかいないのは彼女が自由であることの表現だ。「人間は自由という名の刑罰に処せられている」というのはサルトルの有名な言葉だが、彼女はこの段階では選択によって主体的に自己を構築しているので刑罰を超克しており、それゆえ鼻歌を歌いながら泳いでいるのである。

 さらに第3の段階として、3人目の役者であるもたいまさこがそこへ加わることによってかもめ食堂は大きく発展してゆく。つまり舞台は社会的な拡がりを獲得してアンガージュマン(社会参加)を実現する。それが最後のプールシーンであり、サチエはすでに泳ぐことをやめてただ浮いているだけとなり、プールにいる多数の人々から祝福を受ける表現になってくる。

 いかがだろうか。牽強付会といってしまえばそれまでであるが、ひとつの解釈として成り立ってはいないだろうか。「かもめ食堂」に続く「めがね」では資本主義的価値感を木っ端微塵に打ち砕いてくれたスタッフたちが作った作品としてみればこうした解釈も有力ではなかろうか。

 しかし解釈は百人百様である。であれば一人で複数の解釈があってもよかろうかと思う。もうひとつの解釈を試みたい。プールのシーン以外にも鍵となるシーンはある。それはサチエが合気道の稽古をするシーンである。これも3回出現する。プールのシーンと異なるのは合気道の稽古シーンはストーリー展開の軸になっていることである。

 1回めは、サチエの稽古中にミドリが絡んでヨガのポーズをしてみせるのだが、そのシーンに続くのがマッティのコーヒーのエピソードである。かもめ食堂2番目の入店客マッティはサチエにコーヒーのおいしい淹れ方を指南する。主客が逆転してしまうのである。広告を出してはどうかというミドリの提案を蹴ったサチエだが、マッティのコーヒーには捻じ伏せられる。

 2回めも稽古中にミドリが絡んで来るのだが、今度はミドリが合気道を教えてくれと言い出す。一緒に稽古をし始めると突然サチエがひらめいてシナモンロールを作ってみようと思い立つ。これが転機になって肥ったオバチャンたちが店に入ってくる展開につながる。これが2番目のプールのシーンで総括されることは先に触れた。

 3回めは、メインメニューであるおにぎりが初めて注文されたあとに出現する。もはやミドリはじゃまをしてこなくなりひとりで稽古をする。その後はマサコが厨房に入り3人目のスタッフとなる展開である。

 古来、武道は禅と関係が深い。そうしてみると合気道の稽古が軸になって新たな境地が開けてゆくこのストーリーは禅の修行によって悟りを得てゆく過程であるとも見て取れる。2番目のプールで一人で鼻歌まじりに泳ぐシーンは最初に悟りを得た段階である。しかし悟りには何段ものレベルがあるらしい。最初に得た悟りは自分独りだけの悟りであって、まだ最終段階ではない。

 かつて達磨大師は山に入って座禅の修行をしたという。始めたときには小鳥や獣たちがただのヒトである彼を恐れて近寄らなかったらしい。しかしある時、達磨は悟りを得て、それ以来鳥や獣たちはあたかも彼がいないかのごとく振る舞うようになった。さらに修行を続けるとやがてさらに大きな悟りを得た。すると鳥や獣たちがただじっと座っている彼を慕って集まり遊ぶようになったという。この大悟が3番目のプールのラストシーンである。

 こうしてみると古今東西の哲学がこの作品で融和しているような気がしてくる。脚本を書いた荻上直子が禅や実存主義をどこまで意識したかしないかは本人に問い詰めでもしない限りわからないが、少なくともこれだけの解釈が可能な深みのある作品であることだけは間違いない。

 以下は蛇足である。トンミヒルトネン君から名前を漢字にしてくれとせがまれたミドリに「豚身昼斗念」と書かせた理由は、「肥った生き物」は愛されるべきという話の前提があること、もう一つは笑いをとるつもりだったことにあるだろう。が、少なからずフィンランドの人にはお世話になったのであるから、こういう侮辱をするべきではない。

(2011.01.09)