[映画、ドラマなど]

「とらばいゆ」 / 2007-11-17 (土)

 昨今何かと不祥事の多いNHK、B-CASなどという怪しげなモノを強要してくるNHK。そんな糞食らえのNHKだが、それでも私はNHKに受信料を払ってもいいと思っている。それはなんといっても高品質の番組が多いからである。民放各局はコマーシャリズムを採らざるをえないために番組の質は二の次三の次と後回しにされて、ついには無視される傾向にある。対してNHKは一部の番組を除いて大衆迎合に陥ってはいない。否、その点ではむしろ逆で、国民に対して文化的な刺激を与えようとする強い意識があるように思えるのである。もちろんそれは事実上の国営放送としての国民誘導的なものなのかもしれないが、それは民放にだってある。むしろそれが露骨なのは民放のほうだと思う。

 BS-2で平日の夜やっている映画の枠は危険である。うかつに視はじめてしまうと間違えなく2時間釘付けにされてしまう。この枠で放送される映画に駄作はないからである。一瞬たりとも目が離せないような映画ばかりである。売れた作品ならレンタル屋さんに行けば置いてあるから別にいま視なくてもいいと思えるのだが、この枠ではマイナーな作品が多い。こんなにいい映画は今ここで視ておかないともう視る機会はないかもしれないと思うとつい視てしまう。視はじめるとCMがないからトイレにも行けない。そして見終ると興奮して眠れない。本当に危険である。体に悪い。だからなるべく視ないようにしているのだが、この前ついに捕まってしまった。「とらばいゆ」である。前日が「花とアリス」だった。「花とアリス」はチャンネルを替えていたらたまたま目に入ってきたのだが、あまりにも危険な香りがしたのですぐ替えた。どうでもいい他局の番組で飯を食いながら時間を潰してラストシーンだけ視た。やっぱり凄かった。ちゃんと視れば良かったと後悔した。翌日晩飯の弁当を開けながらテレビをつけたらちょうど「とらばいゆ」が始まったところだった。もう釘付けである。

 枕が長くなりすぎたので粗筋は書かない。姉妹のプロの将棋指しが繰り広げるラブコメであるとだけいっておく。

 最近の日本の映像芸術は色について敏感になっているように思う。その色の使いかたという点でこの「とらばいゆ」は突出したものがあるのではないだろうか。この映画はもちろんカラーフィルムで撮影されているけれど出てくる色は、黒、白、赤、青、の四色しかないのである。この四色の組合せが、明と暗、優と劣、鋭と鈍などを表現し、あるいは伏線を張り、あるいは暗喩に使われ、観るものを次の展開へと導いてくれている。優れた映像作品には必ず画面に緊張感がある。「とらばいゆ」もまたそうであり、この四色限定表現はその緊張感の大きな源になっていると思われる。

 脚本が実によく練れている。姉のアサミが夫カズヤと暮らす高級マンションのダイニングキッチンが主舞台であるが、そこに妹のリナとその彼氏ヒロキの四人が入れ替わり立ち変わり登場する。ヒトは習慣を持ちやすい。特に日本人はそうかもしれない。一度型が決まるとそれを崩すのには然るべきワケがいる。だがこの映画では登場人物の着席位置がそのつど微妙に変わって行く。それが面白い。この変化の意味は一回観た程度ではわからないので、たぶん見直すたびに新しい発見があるに違いない。観れば観るほど味が出てくるだろう奥行きの深さを感じさせる。

 誰かが撮影が不安定で素人臭いというようなことを書いていたが、それには誤解があるように思える。最初にこの四人が顔を合わせるシーンではたしかにカメラが安定していないしアングルもふわふわ動いて落ち着かない。だがそれは手持ちカメラがヘタクソなのではなくてわざと揺らせて撮っているのである。これからこの四人が起こすめちゃくちゃな痴話ゲンカを撮影の揺らぎによって暗喩している訳で、観る側の不安を煽って画面に引き込む巧みな演出だ。

 この作品は繰り返しの手法を基本構造に据えていて、その原点になるシーンが鮮烈である。ダイニングキッチンの奥の部屋に赤いソファーがあるのだが、カズヤが夜遅く帰宅すると必ずアサミが黒いコートにくるまって赤いソファーで眠っているのである。猫のように。赤と黒。この色使いが、眠ってはいてもそこに安らぎはないことを表現している。そしてこの同じ構図のシーンに戻るたびに、カズヤの起こしかた、アサミの目覚めかたがそのつど少しずつ変化していくのである。これを観てエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」を思い出した。「戦艦ポチョムキン」では王宮の屋根に据えられた三つの体位の獅子の像を順番に写して眠れる獅子を立ち上がらせることで民衆が蜂起していく様を象徴していた。「とらばいゆ」の場合は、アサミの目覚めかたが彼女の追い詰められて行く様を表現している。最初は猫だったアサミは最後には狼のようになるのである。

 アサミはB級リーグの最終戦でここで負けるとC級に降格になるという大一番に妹のリナを相手にするのだが、その盤面に向かう姿が強烈なのだ。黒いタートルネックのニットのセーターが痩身を際立たせて鬼気迫るものがある。飢えた狼とはこういう感じなのではないかと思わせる。並の撮影ではこの絵は撮れないだろう。

 キャスティングも見事である。結婚以来負けが込んでどんどんギスギスしていくアサミの瀬戸朝香がラストシーンでいい笑顔を見せてくれる。その夫カズヤの塚本晋也、実にいい味が出ている。エリートサラリーマンにはどうしても見えないところが難点なのだが、左遷されてしまうのでそこもまあ納得できる。妹役の市川実日子はまさにはまり役。姉妹の師匠役の大杉漣は変幻自在の潤滑油としての役どころでここが機能しないと全体が成り立たない。そんな難しい役をさりげなくこなしている。この師匠が姉妹の対決中に青い帽子をかぶったヒロキと缶コーヒーをやりとりするシーンは見所のひとつである。どちらが勝つかは青い帽子のヒロキが赤、青どちらのコーヒーを選び、どちらを飲むことになるかで暗示されているからだ。

 とらばいゆ=Travailは、仕事、苦労という意味のほかに産みの苦しみという意味もあるらしい。脚本・監督の大谷健太郎の意図は、この産みの苦しみということころにありそうである。それはラストシーンでしっかり描かれている。似た者姉妹ということをさんざん強調しておいて、産みの苦しみを終えたアサミと未経験のリナが最後は異質な存在として描かれる。このラストシーンはなぜか必ずしも評判が良くないようだが私には不評の理由が分からない。無理な大団円にしなかたったところにこの映画の真骨頂があるように思えるのだ。

 このように緻密にして表現力豊かな質の高い作品を観てしまうとただ派手なだけのハリウッド映画のバカバカしさが改めて感じられてしまう。しかし一方で、いかに良くできているからといってこういう生活臭の漂う痴話ゲンカがモチーフの映画が大衆ウケするはずはなく、そんな映画をやってくれるNHKはやはり貴重な存在だといわざるを得ないのである。

(2007.11.17)