[映画、ドラマなど]

ロング・ラブレター〜漂流教室〜 / 2011-10-29 (土)

 長い間、観たい観たいと思っていた大森美香脚本のドラマ「ロング・ラブレター〜漂流教室〜」のDVDをようやく購入できた。たいていの場合、あまりに期待しているとかえってガッカリしてしまうものだが、本作品は嬉しいことに期待度を大きく上回ってくれた。本作品はたいへん緻密に作られており、そのすべてを解析することは難しいが、以下にまとまりがないながら、多少の分析を試みようと思う。

■ドラマの基本構造

 まず学校がなぜ未来世界へ漂流してしまったのかという説明がきちんとなされているところに注目したい。これを堅苦しいロジックを用いずにラブストーリーとして表現しているところが本作の出色の出来栄えであり、脚本家・大森美香の面目躍如たるところだ。

 ちなみに原作にはこの点の説明はまったくない。原作にはない説明を与えるには原作には無い設定を作り込む必要があるのだが、それがヒロインの元教師三崎結花(常盤貴子)と三崎の教え子の藤沢隆太(妻夫木聡)、そして三崎結花の恋人の新米教師浅海暁生(窪塚洋介)である。

 この三角関係はラブストーリーという形でこのドラマの表層を形成している。しかしじつはこのラブストーリーの三角関係の裏側にはまったく違ったプロットが仕組まれているのである。以下少々あらすじを書く。

 物語は三崎結花と浅海暁生の雑談風景で始まる。二人は書店で同じ本に同時に手を伸ばすという古典的な、しかしかなり羨ましい出会いによって一時のおしゃべりを楽しむわけだが、その晩、浅海暁生が携帯電話を盗まれることでお互いに連絡が取れなくなってしまう。そして「失われた時」を経た1年後、三崎結花は実家の花屋を手伝っている。ところが彼女の意志は花屋を継ごうというものでもなければ、再就職活動の片手間でというわけでもない中途半端なものなのだ。なぜならば彼女には1年半前に高校教師を辞めざるをえなくなったある事件へのこだわりがあったからである。その事件とはケンカ三昧に明け暮れる不良生徒藤沢が起こしたものであり、彼女はその藤沢をかばってやむなく退職したのだった。そんな三崎結花にかつての勤務先であった高校から花束の注文が届く。そしてこの時から時間軸が歪み始めるのである。 1年半ぶりに元の職場の校門をくぐった三崎結花は、図らずもそこの教師になっていた浅海暁生に再会する。しかし顔を合わせた時の状況は最悪で喧嘩別れしてしまう二人。そして年末年始を挟んだのちに三崎は藤沢から不意の電話を受ける。藤沢は、先生のおかげで寿司屋の板前として立ち直ったから、自分が握った寿司は最初に先生に食べて欲しいのだ、と訴える。嬉し涙に絶句する三崎。昼休みに公園で待ち合わせをした二人だが、三崎はその前に集金のために高校に立ち寄ってしまう。そして校庭で再び浅海暁生に対面する。藤沢との約束があるため一度は立ち去ろうとする彼女だが、浅海暁生にも1年前に電話したことを伝えたい彼女は、ふと立ち止まり踵を返す。そしてその瞬間大地震が起こり学校は未来世界へワープしてしまう。これが第1話の冒頭から学校が時空間を漂流してしまうまでのあらすじだが、その後、物語の進展とともに浅海暁生の正体が明かになる。実は彼は孤児院で育った天涯孤独の身の上なのだった。

 大森美香の脚本の底流にあるのは、引き裂かれた自己、であると思う。そしてその表現が観る者の心の琴線に触れるのであるが、この三崎結花の状況がまさにその引き裂かれた自己そのものだ。彼女は藤沢の起こした事件によって不本意ながら教職を辞めることになったが、それは藤沢の更生と成長が得られるまでは報われない。つまり板前として立ち直った藤沢との再会なくしては、過去は永遠に清算されず彼女は未来へ向かって歩き出せないのだ(三崎は古文の教師)。しかし一方では劇的な形で出会った浅海暁生に惹かれる自分も存在する。その浅海暁生という人格は肉親・家族を持っていない。すなわち彼には拘泥する過去もなければ守るべき現在もない。つまり彼は未来へのベクトルだけしか持たない特殊な存在なのである(最終話で彼だけが2002年の人たちに手紙が書けない)。この引き裂かれた状況が彼女をしばしの間校庭に留まらせたのである。「失われた時を求めて」過去へと回帰しようとする藤沢ベクトルとひたすら未来へ向かおうとする浅海ベクトル。この両者のベクトルの相反こそが時間軸を歪ませて学校を漂流させた原因なのだ。そしてこれがこの「ロング・ラブレター」というドラマの基本構造となっている。

 ここで色について触れたい。三崎結花の服装が象徴的である。紫のタートルネックのセーターの上に黄色いコート。「トキワ、センス悪過ぎ」とか、おっしゃって下さいますな。こういう不自然な配色が出てきた時にはどのような演出意図があるのか読み解きたい。

黄色 ピンク
ミサキフローリストのロゴ ミサキフローリストのクルマ
花束に入れかけて入れなかった薔薇(#1)→急に萎びた=時間軸が歪み始める 「運命の巡り合いがある」というおみくじで喜ぶ結花の振袖 結花が浅海に与えたつぼみのチューリップ(#1)
花束のポイントに入れられた花(#1)→大友唯が捨てられてしまうならと受け取った 美雪のタトゥーの花
未来へ行って戻ってきたハツ子のネイル(#5,#11)=#3では緑
結花のコート 結花のタートルネックのセーター 浅海とデートする時の結花のケープ(#11)
風化しなかった造花の薔薇(#3) 重雄が結花に届くと思ったと言いながら開けた花(#5) 夢で結花が浅海に与えたつぼみのチューリップ(#7)
未来で生き残るトメ子のマフラー(#10) トメ子のスウェット(#1)
人工受粉させた花壇の花(#6) 「幸せです」という結花の手紙の時の少女のスカートとその子が選んだ花(#11)
池垣農園に咲いた花(#11)

■ロング・ラブレターとは?

 楳図かずおの原作「漂流教室」は言わずと知れた名作、漫画史に残る傑作である。それは私にも分かる。しかし私のような凡人にはその作品から「ロング・ラブレター」というモチーフを言葉として紡ぎ出すことはできない。それができるのはやはり優れた作家・詩人をおいて他は無い。

 時空を超えた遠いところにいるのかもしれない我が子へ届けられる武器や薬はまさしくロング・ラブレターだ。クリスマスに渡し損ねた手編みのマフラーも、動脈硬化を起こしかけている老人が口にする古くさい価値観も、遅れて出した年賀状も、未来の誰が見るかも分からずに描かれた壁画も、シャーマンになる西あゆみもその口から出る言葉も、そして不条理にも未来世界へと飛ばされてしまった者たち自身もすべてはロング・ラブレターなのだ。「漂流教室」はそんなロング・ラブレターがぎっしりつまった作品だったのだ。それを大森美香は教えてくれた。原作のファンは数多くいるが、このことに気づいていた人は少ないに違いない。

 第9話で三崎結花はこんな言葉を口にする。「渡せなかった言葉とか気持ちとか、ずーっと信じてればいつか届くような気がするんだ、時間とか空間とか常識とか全部とばして、いつかきっと……」。このセリフは涙腺を刺激する。私たちは常日頃、胸の中に渦巻く感情を懸命に抑えながら生きている。その思いのほとんどは誰にも伝えられることなく日常は過ぎて行く。本当は伝えたほうがいいことも、伝えなければならないこともたくさんあるのはわかってはいる。でもそうしたことのほとんどは伝えられないまま時間は過ぎて行く。だからこのセリフはそんな自分に対するささやかな言い訳だ。自分では口にできないその言い訳を自分の代わりに語ってもらえるからこそ私たちはドラマという劇を観るのだろう。

 そしてこのセリフはラストシーンで、もう来るはずもない三崎をあてどなく待っている藤沢を訪ねるシーンへとつながる伏線になっている。彼女の黄色のコートは時間軸の歪みを象徴する色であると同時に、その先にある希望の色であり、別の世界とこの世界とを繋いでくれるロング・ラブレターの色なのだ。

■サバイバルについて

 原作ファンからの一番の批判は、原作はこんなホンワカしたラブストーリじゃなくてもっと過酷なサバイバルの世界を描いているんだゾ、という点にあるように思われる。もっともな批判である。しかしこのドラマの中で死んだ者のリストをよく見てほしい。

死んだ人 役職 殺した人 任命者
平沼剛(#4) 体育教師 若原
若原述之(#6) 学年主任英語 第2人類
侵入者たち3人(#7) 第2人類
二宮(#10) 柔道部員 第2人類
池垣(#8) 農林大臣 殉職 浅海(#5)
美雪(#10) 防衛大臣 殉職(第2人類) 三崎(#5)
結花(#11) マザー 殉職 浅海(#4,5)

 死んだ者は明確に2群に分けられる。ひとつは守るべき者、すなわち2002年から送り込まれた種子達=生徒たちに対して暴力をふるった者である。そしてもう一つのグループは殉職者たちである。農林大臣・池垣、防衛大臣・美雪、そしてマザー・結花。彼らはその役割を与えられて、それぞれ活き活きとその任務を遂行した。それにもかかわらず彼らには残酷にも死が用意されたのである。なぜだろうか。それは彼らが他者により任命されたからにほかならない。逆に生き残るものたちはどうだろうか。医師になった柳瀬はギリギリのところで自ら医師たることを決断した。川田咲子は総理大臣に立候補している。大友唯はこの荒れ果てた世界で生きてゆくという決意を持っている。高松翔はいつか元の世界に帰るという目標を持っている。生き残る者たちは、それが誰にも相手にされないものであっても、あるいはどんなに後ろ向きなものであっても必ず自発性を持っているのだ。これに対してどんなに充実した仕事ぶりをしようとも他者に推されてその任に就いた者には必ず死が待っているのである。

 第9話では畑に植えた野菜を間引きするエピソードが挿入されている。間引きとは本質的には優劣によってなされるものではない。生育にとって適正な距離を空けることにその目的がある。このドラマにおいてはその距離を計るモノサシが他者によって任命されたかどうかに設定されているということだ。大森美香はこうしたところにさりげなく、しかし明確に、冷徹な淘汰というサバイバルをキチンと仕込んでいるのである。

■ヒロインが死ななければならないわけ

 しかしその「間引き」のサバイバルは農林大臣・池垣、防衛大臣・美雪はともかく、完全なドラマオリジナルの主人公三崎結花が死ななければならない理由には直接結びつかない。死なせずにハッピーエンドにするシナリオだって作ることができたのではないだろうか、と考えるとやはりそうではない。なぜならば先述したとおり時間軸を歪ませて学校を未来世界へ漂着させてしまったのは三崎結花その人だからである。このドラマでは元の世界に帰る方法を見つけることのできた者は一人もいない。唯一まともに元の世界に帰ったのはハツ子の爪だけだ。でもほんとうは元の世界へ戻れる方法がたったひとつだけあるのだ。それはかつて三崎の教え子だった藤沢がその拳で開けた渡り廊下の穴を今度はMASH(三崎)が漲る思いを込めて叩くことだ。渡り廊下とは彼岸と此岸を結ぶ特殊な場所である。だからハツ子の腕がその穴から未来世界へ出てきたのだ。だがMASHがあの穴を叩いてしまうと学校は過去へ戻るかもしれないが、正しく2002年の1月7日午前11時15分に帰れるかどうかが疑わしい。ひょっとするとそれより1年半前の藤沢が事件を起こした時点に戻ってしまう可能が高いのではないかということになってしまう。

 物語の最後は未来へ来た者たちが自分たちが未来世界に蒔かれた種子であることを自覚して終わらなければならない。そのためにはシナリオとしては二度と再び時間軸が歪まないように固定化することが必要なのであり、それは三崎結花の死を以って初めて成立することなのである。彼女の死によってようやく漂流は終わり、砂漠の中に希望という黄色い花が結ぶのだ。

 しかしただ単に三崎結花を死なせればよいわけではない。彼女の死に際しては彼女がこだわった過去の清算という作業(=藤沢ベクトルの消化)を伴う必要がある。三崎が藤沢に会いに行ってお互いに「ずっと言いたかった」言葉を伝え合うシーンはその意味で欠くべからざるものだった。このシーンを三崎の死に際の夢とみるか、三崎の死霊が藤沢のもとに行ったとみるか、はたまた藤沢の悟りの幻と解釈するかは観る者に任されているわけだが、脚本の論理としてはこのように完結している。

■ラストシーン

 このドラマは結末がよくわからないという意見が多かったようである。その一つの理由は2002年に手紙を飛ばしたときの暁生の空想シーンであろう。これは第7話で瀕死の暁生が「もっと穏やかでもっと平凡な未来だってありえたはず」というセリフから夢を見るシーンが伏線になっている。手紙を飛ばしたときの暁生は三崎結花のいない砂漠で生きてゆくために、穏やかで平凡な未来を諦めるという形で結花に別れを告げているのである。このシーンでは結花は漂流を象徴する紫色のセータだけで希望の色である黄色のコートは着ていない。このことは漂流が終了したと同時に、暁生が結花という希望も失ったことが暗示されている。

 しかし2002年という過去に向けて放たれたロング・ラブレターは見事に時空を超えて、初めて二人が出会った日の晩に届いたのだ。その手紙はこなごなに破けてしまってちっとも読めないものだったけれどもその紙吹雪を手のひらに受け止めた暁生は昼間出会った三崎結花に再び会うべく決断して、今度はちゃんと電話をかける。そんなちょっとした「今を大事に」する気になったことで未来は変わる。たぶんきっとその後の二人は第7話で瀕死の暁生が夢見たような穏やかで平凡な未来を迎えることになったのであろう。最後に校門の外が緑に変わったのはそれを表している。

 2009年の今だって、依然として世界には大量の核兵器があり、戦争は絶えることなく続き、資源の浪費も砂漠化も加速度的に進行している。このドラマが放映された2002年よりももっと砂漠の未来は現実味を帯びてきている。だから私たちはもっと今を大事に、誰かから送られた心のこもった長い手紙を読みながら、もっと懸命に生きる必要があるだろう。 「きっと意味だってあるよ」そう思って「今を生きる」ことが世界を少しずつでも変えていくかもしれないから。

■第2人類について

 最後に第2人類について触れたい。死んだ者が2つの群に分類できることを先に述べたが、殉職者でない群のほうは基本的に下手人は第2人類である。これをみると第2人類は恐るべき敵であるようにみえるのだが実はそうではないのだ。(原作では未来人類と呼称している)第2人類に殺されたのはみな暴力的な人間達であることを鑑みるとむしろ彼らは悪を働く者たちを粛清していることがわかる。防衛大臣の美雪を殺したのも彼らだが、彼らが攻撃の対象にしたのは畑の野菜を一人で貪り喰う二宮だけだ。美雪は防衛大臣として学校に侵入してきた彼らを撃退しようとしたわけだが、彼らのほうからすれば攻撃してきたのは美雪であって、軽く自己防衛したら力の差がありすぎたために図らずも美雪が死んでしまったということに過ぎない。いつの世も「防衛」なる行為は恐ろしいものである。自らの蛮勇などを頼らずに言葉で応対していれば別の結果になったであろうに……。現に結花の遺体を抱いた暁生が涙ながらに絶叫して訴えたときは彼らは何らの敵意も示さず立ち去っていった。
 暁生に対して【「心」や「生きる意味」は、「生存」には、必要ない。】【弱い生き物は……滅びるしかない世界だ。】と返信してきた彼らは一つ大事な言葉を隠している。それは【不本意ながら】だ。彼らには心が、ヒトとしての心があり、沙漠の世界に過去から突然やってきた「弱い生き物」をヒトとして守ろうとする意志があるように思える。ただしそれはその「弱い生き物」たちが苦しい中にも秩序ある生活を営む限りにおいてなのであって、その秩序を自己中心的に暴力で壊す者に対しては彼らは一転して無慈悲な裁きを下す者となる。それが彼ら第2人類の「生きる意味」なのではなかろうかと思う。こんな不気味な生き物にもちゃんと存在理由を与えるところに愛にあふれた大森美香の世界観が感じられて好ましい。

 上記の文章は、2009年に書いたものだが、まとまりがなかったため公表していなかった。やや整理してこのたびアップするものだが、2011.3.11の原発事故があり、中東情勢の緊迫もあり、世界はさらに滅亡への勢いを速めている。その意味でも、このドラマは放映後約10年を経た今、いよいよその価値を増しているといわねばならない。

(2011.10.29)

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[サッカー]

呪いの横断幕 / 2011-09-30 (金)

 アジアチャンピオンズリーグで9月27日にC大阪をホームで迎えた韓国のサポーターが『日本の大地震をお祝います』という横断幕を掲げた問題で、韓国の全北現代モータースが公式サイトに謝罪文を掲載したという。その内容は報道によると「失意にくれる日本国民とサッカーファンに、深い謝罪の言葉を伝えます」「一部ファンのかんばしくない行動により物議をかもした件で、全北現代を愛し、サッカーを愛するファンたちに謝罪申し上げます」との文言がハングルで書かれているらしい。これに対し、私の周辺では「謝罪の方向が違う!」と批判の声が上がった。

 思い起こせば、昨年のJリーグでは、浦和のサポがFC東京との試合でFC東京がJ2への降格線上にいることを揶揄した横断幕を掲げて物議を醸した。『祝!!J2東京ダービー開催!』がそれである。その呪いの効果はてきめんに現れて、FC東京は最終節で順位を落とし、ほんとうにJ2へ降格になってしまった。

 では、呪いをかけた側の浦和はどうなったか。今年彼らは下位に低迷しており、残り試合の成績が芳しくなければ、去年のFC東京と同様にJ2への降格もありそうな状況である。まさしく、他人を呪わば墓の穴は二つ必要になる勘定になっているようだ。

 少々話が脱線した。たしかに全北現代の「謝罪」の仕方は奇妙である。謝罪の対象となるべきなのは日本の被災地、被災者であって、サッカーファンではないし、ましてや全北現代の関係者なんかではない。この方向違いがどこから生じるのかはわからないが、韓国の皆さんには衷心から申し述べたいことがある。それは、全北現代のフロントは心無いサポータがかけた忌まわしい呪いをきちんと解くべきである、ということだ。そうしないと、他人を呪わば穴二つで、近い将来、韓国全土が危機に陥りかねないのである。

 たかが横断幕でおおげさな、というなかれ。去年のFC東京のまさかの降格の瞬間をこの目で目撃した者には、されど横断幕なのである。最終節までFC東京の下にいた神戸が大差で勝ったというニュースが入ったちょうどそのとき、FC東京のサポが陣取るスタンドから一羽の白鷺が飛び立って、彼らを見限るかのように悠々と京極スタジアム上空を飛び去っていったのはまことに象徴的だったのだから。

 自己嫌悪に陥るのだが、サッカーサポってどうしてこうイカレたやつが多いのだろう。頭をカチ割って脳みそをつぶさに観察してみたい衝動にかられてしまうのは私だけだろうか。

(2011.9.30)


[旅、歴史など]

ハルマゲドンが近い / 2011-02-13 (日)

 2012年の12月に人類は滅亡するという噂があるという。一説には巨大小惑星が地球に激突するといい、またある説では地軸の逆転が起きて環境が激変するという。この手の話はいずれも根拠がなく、オカルト的な終末思想であるのだが、昨今の世界情勢を鑑みるに、最悪のシナリオとして核戦争の勃発がありうるのではないかと思えるので、ここに述べておきたい。

 2011年2月13日現在、エジプトではムバラク大統領がついに辞任に至った。今までエジプトは中東におけるアメリカの忠実な子分の筆頭だったといってよい。その親米のムバラクが倒された後のエジプトはどうなるのだろうか。イランのアフマディネジャド大統領が云うとおり、おそらくはイスラム主義勢力が台頭して反米の色彩が強くなると思われる。それはイスラエルにとっては西の防波堤が決壊することを意味する。東では米軍がイラクで悪逆非道の限りをつくしメチャクチャにしてしまった。米軍が撤退した後のイラクは当然のことながら強硬な反米反イスラエルの国になるだろう。イスラエルはもはや四面楚歌の状態に陥るわけである。そうなればイスラエルはアラブ諸国の圧力に屈服するのだろうか。いまイスラエルは重大な岐路に立たされている。ひとたび譲歩をすればアラブ諸国は矢継ぎ早に次の要求を繰り出してくるであろう。際限なき譲歩などしてはいられまい。ではあくまで対決路線を貫くか。現時点でさえイスラエルはヒズボラやハマースといった反イスラエル組織と一触即発の緊張状態にある。対決路線を貫くなら、近い将来必ず戦争となる。これまでイスラエルは戦争をすることで周辺諸国を抑え込んできた。現時点の軍事力ならイスラエルは圧倒的に強いだろう。しかし長期戦となったらどうだろうか。今のアメリカは天文学的な財政赤字を抱えている国家である。もはやアメリカにはイスラエルの後方兵站を担う力は期待できないとみるべきだ。アメリカの支援がなければ、イスラエルは緒戦では勝てても長期化すれば遠からず疲弊する。形勢が逆転してイスラエルが追い詰められたらどうなるか。無条件降伏はイスラエルという国家の消滅を意味する。それをいさぎよしとしないなら、最終兵器を使うしかない。核である。
 もちろん国境付近で核は使えない。そんなことをしたら敵も滅ぶが自分も滅ぶ。ではどこに核爆弾を落とすのか。現在のところ反イスラエルの急先鋒はイランである。仮にイランの首都テヘランを核攻撃するとすれば、およそ福岡→札幌間の距離がある。この距離と相手はまことに魅力的だ。だがイランの後背には核大国ロシアがいるのである。イランとロシアは近年とみに仲がよい。ヒロシマ・ナガサキ以降の核軍拡競争は、核を使えば必ず報復がある、という前提の下になされてきた。この定義が真ならテヘラン核攻撃の報復はロシアがすることになるだろう。しかしロシアが核ミサイルを発射する時は、その目標はイスラエルだけではないはずだ。報復の報復を恐れればロシアは当然アメリカやイギリスにも同時にミサイルを打つことになる。その先はあえて云うまでもない。

 以上に最悪のシナリオを提示した。このシナリオには日本は出てこない。ならば日本は無関係でいられるかというとそうではないと思うのでこれを書いている。以下は核ミサイルが飛び交う前の段階の話である。

 いざ中東でイスラエルの存亡を賭けた最終戦争が始まれば、かならずやアメリカは日本に派兵を要求してくるだろう。その時、私たちはどうするのか。イラク侵攻の時と同じくアメリカのいうとおりにのこのこと出かけてゆくのか。「今度も非戦闘地帯限定で……」などという間抜けたことは云っていられない。そのとき派兵するということは、イスラエルの味方についてアラブ諸国に攻撃をしかけるということになるのだ。いかがだろうか。あなたはイスラエルのために血で血を洗う戦争をしに中東へ行きたいですか。
 いま道行く人を片っ端からつかまえてこの質問をすれば、ほとんどの人は「そんなことはいやだ」と答えるだろう。「やろうやろう」と諸手をあげて賛成する人はあまり常識的でない人だと言わねばならない。ではどうするのか。どうすれば中東のハルマゲドンに巻き込まれずにいられるか。答えは一つである。どこかでアメリカとの関係を断つしかないのだ。これができないと中東でいずれ起こる大惨禍は私たちの頭の上に直接降りかかってくるのである。土壇場になってからでは遅い。今こそ自らの過去を想い起こそう。かつて、なんとかなるだろうの連続で問題をずるずると先送りした結果、出来したのがあの悲惨な太平洋戦争だったではないか。いま風雲は急を告げている。もう右も左もない。普天間基地の問題はアメリカと手を切る絶好のチャンスである。ここでお茶を濁していてはほんとうに危険なのである。繰り返す。アメリカと絶縁しなければ日本も地獄へ引きずり込まれる。

(2011.2.13)


[映画、ドラマなど]

「かもめ食堂」 / 2011-01-09 (日)

 きわめて難解な作品である。これをお読みの方にお願いしたいのだが、この作品について明快に解説している文献があればぜひともご一報いただきたい。以下に拙いながら解釈の手掛かりを記すことにする。

 この作品の際立った特徴は、多くの人が指摘しているように、わからないことが多い、という点である。小林聡美が演じるかもめ食堂の店主サチエはなぜフィンランドを選び、なぜ食堂を開店することになったのか。サチエに突然話しかけられるミドリはなぜ遠くへ旅に出る必要があったのか。そしてなぜフィンランドに来たのか。原作とされる小説では書かれているらしいこれらのことがこの映画では謎として示される。観る者はまずこれらの謎と直面することとなる。しかも不明なことは不明として受け止めよ、とは言われていない。たった今思いついたこじつけだとか、目をつぶって指差したところがフィンランドだったとかいうセリフで示されていることは、そういうことはわざと説明していないのですよ、ということである。ならばその意図は何であるかを読み取らなければならない。どこに解明の鍵があるだろうか。最も注目すべきは小林聡美がプールで泳ぐシーンである。ストーリーとはまったく関係のないシーンがあるとすればそれは謎を解く鍵であるはずだ。それがプールのシーンである。

 プールのシーンは3回ある。最初はかもめ食堂の記念すべき第1号の入店客トンミヒルトネンが来る直前、つまり開店したもののまったくお客がいない状態のときである。肥った3人連れのご婦人がたはまだウィンドウ越しに冷やかしているだけだ。2回目はシナモンロールの匂いにつられて3人連れの肥ったご婦人がたがついに入店し常連客になった後、もたいまさこ登場の直前にある。そして最後はかもめ食堂が満員になった後のラストシーンである。

 このプールのシーンによって映画は3段階に分けられているのだが、この構造は実存主義哲学を映像的に表現したものなのではないかと思われるのである。

 私たちはいつも渾沌の中に投げ入れられている。好む好まざるを問わず私たちはいつも現実という海の中にいる。そして往々にして現実というやつはまことにやっかいなのである。そう思うことを実存主義では投企的自己認識と云ったりする。最初のプールのシーンでサチエは平泳ぎをしているがプールの中にはサチエ以外の人も何人かいてそれぞれサチエとは関わりなく泳いでいる。彼女がなぜここへやってきてなぜ食堂を開こうとしたのかを説明しないのはこの投企状態を表現しているわけである。

 次にトンミヒルトネン及びミドリと関わることによってサチエは対他的に自己を認識し、主体性を獲得する。それが二回目のプールのシーンで表現される。2回目でサチエはやはり平泳ぎをしているが、もはや鼻歌を歌いながら泳いでいる。しかもプールの中には彼女一人しかいない。彼女一人しかいないのは彼女が自由であることの表現だ。「人間は自由という名の刑罰に処せられている」というのはサルトルの有名な言葉だが、彼女はこの段階では選択によって主体的に自己を構築しているので刑罰を超克しており、それゆえ鼻歌を歌いながら泳いでいるのである。

 さらに第3の段階として、3人目の役者であるもたいまさこがそこへ加わることによってかもめ食堂は大きく発展してゆく。つまり舞台は社会的な拡がりを獲得してアンガージュマン(社会参加)を実現する。それが最後のプールシーンであり、サチエはすでに泳ぐことをやめてただ浮いているだけとなり、プールにいる多数の人々から祝福を受ける表現になってくる。

 いかがだろうか。牽強付会といってしまえばそれまでであるが、ひとつの解釈として成り立ってはいないだろうか。「かもめ食堂」に続く「めがね」では資本主義的価値感を木っ端微塵に打ち砕いてくれたスタッフたちが作った作品としてみればこうした解釈も有力ではなかろうか。

 しかし解釈は百人百様である。であれば一人で複数の解釈があってもよかろうかと思う。もうひとつの解釈を試みたい。プールのシーン以外にも鍵となるシーンはある。それはサチエが合気道の稽古をするシーンである。これも3回出現する。プールのシーンと異なるのは合気道の稽古シーンはストーリー展開の軸になっていることである。

 1回めは、サチエの稽古中にミドリが絡んでヨガのポーズをしてみせるのだが、そのシーンに続くのがマッティのコーヒーのエピソードである。かもめ食堂2番目の入店客マッティはサチエにコーヒーのおいしい淹れ方を指南する。主客が逆転してしまうのである。広告を出してはどうかというミドリの提案を蹴ったサチエだが、マッティのコーヒーには捻じ伏せられる。

 2回めも稽古中にミドリが絡んで来るのだが、今度はミドリが合気道を教えてくれと言い出す。一緒に稽古をし始めると突然サチエがひらめいてシナモンロールを作ってみようと思い立つ。これが転機になって肥ったオバチャンたちが店に入ってくる展開につながる。これが2番目のプールのシーンで総括されることは先に触れた。

 3回めは、メインメニューであるおにぎりが初めて注文されたあとに出現する。もはやミドリはじゃまをしてこなくなりひとりで稽古をする。その後はマサコが厨房に入り3人目のスタッフとなる展開である。

 古来、武道は禅と関係が深い。そうしてみると合気道の稽古が軸になって新たな境地が開けてゆくこのストーリーは禅の修行によって悟りを得てゆく過程であるとも見て取れる。2番目のプールで一人で鼻歌まじりに泳ぐシーンは最初に悟りを得た段階である。しかし悟りには何段ものレベルがあるらしい。最初に得た悟りは自分独りだけの悟りであって、まだ最終段階ではない。

 かつて達磨大師は山に入って座禅の修行をしたという。始めたときには小鳥や獣たちがただのヒトである彼を恐れて近寄らなかったらしい。しかしある時、達磨は悟りを得て、それ以来鳥や獣たちはあたかも彼がいないかのごとく振る舞うようになった。さらに修行を続けるとやがてさらに大きな悟りを得た。すると鳥や獣たちがただじっと座っている彼を慕って集まり遊ぶようになったという。この大悟が3番目のプールのラストシーンである。

 こうしてみると古今東西の哲学がこの作品で融和しているような気がしてくる。脚本を書いた荻上直子が禅や実存主義をどこまで意識したかしないかは本人に問い詰めでもしない限りわからないが、少なくともこれだけの解釈が可能な深みのある作品であることだけは間違いない。

 以下は蛇足である。トンミヒルトネン君から名前を漢字にしてくれとせがまれたミドリに「豚身昼斗念」と書かせた理由は、「肥った生き物」は愛されるべきという話の前提があること、もう一つは笑いをとるつもりだったことにあるだろう。が、少なからずフィンランドの人にはお世話になったのであるから、こういう侮辱をするべきではない。

(2011.01.09)