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ロング・ラブレター〜漂流教室〜 / 2011-10-29 (土)

 長い間、観たい観たいと思っていた大森美香脚本のドラマ「ロング・ラブレター〜漂流教室〜」のDVDをようやく購入できた。たいていの場合、あまりに期待しているとかえってガッカリしてしまうものだが、本作品は嬉しいことに期待度を大きく上回ってくれた。本作品はたいへん緻密に作られており、そのすべてを解析することは難しいが、以下にまとまりがないながら、多少の分析を試みようと思う。

■ドラマの基本構造

 まず学校がなぜ未来世界へ漂流してしまったのかという説明がきちんとなされているところに注目したい。これを堅苦しいロジックを用いずにラブストーリーとして表現しているところが本作の出色の出来栄えであり、脚本家・大森美香の面目躍如たるところだ。

 ちなみに原作にはこの点の説明はまったくない。原作にはない説明を与えるには原作には無い設定を作り込む必要があるのだが、それがヒロインの元教師三崎結花(常盤貴子)と三崎の教え子の藤沢隆太(妻夫木聡)、そして三崎結花の恋人の新米教師浅海暁生(窪塚洋介)である。

 この三角関係はラブストーリーという形でこのドラマの表層を形成している。しかしじつはこのラブストーリーの三角関係の裏側にはまったく違ったプロットが仕組まれているのである。以下少々あらすじを書く。

 物語は三崎結花と浅海暁生の雑談風景で始まる。二人は書店で同じ本に同時に手を伸ばすという古典的な、しかしかなり羨ましい出会いによって一時のおしゃべりを楽しむわけだが、その晩、浅海暁生が携帯電話を盗まれることでお互いに連絡が取れなくなってしまう。そして「失われた時」を経た1年後、三崎結花は実家の花屋を手伝っている。ところが彼女の意志は花屋を継ごうというものでもなければ、再就職活動の片手間でというわけでもない中途半端なものなのだ。なぜならば彼女には1年半前に高校教師を辞めざるをえなくなったある事件へのこだわりがあったからである。その事件とはケンカ三昧に明け暮れる不良生徒藤沢が起こしたものであり、彼女はその藤沢をかばってやむなく退職したのだった。そんな三崎結花にかつての勤務先であった高校から花束の注文が届く。そしてこの時から時間軸が歪み始めるのである。 1年半ぶりに元の職場の校門をくぐった三崎結花は、図らずもそこの教師になっていた浅海暁生に再会する。しかし顔を合わせた時の状況は最悪で喧嘩別れしてしまう二人。そして年末年始を挟んだのちに三崎は藤沢から不意の電話を受ける。藤沢は、先生のおかげで寿司屋の板前として立ち直ったから、自分が握った寿司は最初に先生に食べて欲しいのだ、と訴える。嬉し涙に絶句する三崎。昼休みに公園で待ち合わせをした二人だが、三崎はその前に集金のために高校に立ち寄ってしまう。そして校庭で再び浅海暁生に対面する。藤沢との約束があるため一度は立ち去ろうとする彼女だが、浅海暁生にも1年前に電話したことを伝えたい彼女は、ふと立ち止まり踵を返す。そしてその瞬間大地震が起こり学校は未来世界へワープしてしまう。これが第1話の冒頭から学校が時空間を漂流してしまうまでのあらすじだが、その後、物語の進展とともに浅海暁生の正体が明かになる。実は彼は孤児院で育った天涯孤独の身の上なのだった。

 大森美香の脚本の底流にあるのは、引き裂かれた自己、であると思う。そしてその表現が観る者の心の琴線に触れるのであるが、この三崎結花の状況がまさにその引き裂かれた自己そのものだ。彼女は藤沢の起こした事件によって不本意ながら教職を辞めることになったが、それは藤沢の更生と成長が得られるまでは報われない。つまり板前として立ち直った藤沢との再会なくしては、過去は永遠に清算されず彼女は未来へ向かって歩き出せないのだ(三崎は古文の教師)。しかし一方では劇的な形で出会った浅海暁生に惹かれる自分も存在する。その浅海暁生という人格は肉親・家族を持っていない。すなわち彼には拘泥する過去もなければ守るべき現在もない。つまり彼は未来へのベクトルだけしか持たない特殊な存在なのである(最終話で彼だけが2002年の人たちに手紙が書けない)。この引き裂かれた状況が彼女をしばしの間校庭に留まらせたのである。「失われた時を求めて」過去へと回帰しようとする藤沢ベクトルとひたすら未来へ向かおうとする浅海ベクトル。この両者のベクトルの相反こそが時間軸を歪ませて学校を漂流させた原因なのだ。そしてこれがこの「ロング・ラブレター」というドラマの基本構造となっている。

 ここで色について触れたい。三崎結花の服装が象徴的である。紫のタートルネックのセーターの上に黄色いコート。「トキワ、センス悪過ぎ」とか、おっしゃって下さいますな。こういう不自然な配色が出てきた時にはどのような演出意図があるのか読み解きたい。

黄色 ピンク
ミサキフローリストのロゴ ミサキフローリストのクルマ
花束に入れかけて入れなかった薔薇(#1)→急に萎びた=時間軸が歪み始める 「運命の巡り合いがある」というおみくじで喜ぶ結花の振袖 結花が浅海に与えたつぼみのチューリップ(#1)
花束のポイントに入れられた花(#1)→大友唯が捨てられてしまうならと受け取った 美雪のタトゥーの花
未来へ行って戻ってきたハツ子のネイル(#5,#11)=#3では緑
結花のコート 結花のタートルネックのセーター 浅海とデートする時の結花のケープ(#11)
風化しなかった造花の薔薇(#3) 重雄が結花に届くと思ったと言いながら開けた花(#5) 夢で結花が浅海に与えたつぼみのチューリップ(#7)
未来で生き残るトメ子のマフラー(#10) トメ子のスウェット(#1)
人工受粉させた花壇の花(#6) 「幸せです」という結花の手紙の時の少女のスカートとその子が選んだ花(#11)
池垣農園に咲いた花(#11)

■ロング・ラブレターとは?

 楳図かずおの原作「漂流教室」は言わずと知れた名作、漫画史に残る傑作である。それは私にも分かる。しかし私のような凡人にはその作品から「ロング・ラブレター」というモチーフを言葉として紡ぎ出すことはできない。それができるのはやはり優れた作家・詩人をおいて他は無い。

 時空を超えた遠いところにいるのかもしれない我が子へ届けられる武器や薬はまさしくロング・ラブレターだ。クリスマスに渡し損ねた手編みのマフラーも、動脈硬化を起こしかけている老人が口にする古くさい価値観も、遅れて出した年賀状も、未来の誰が見るかも分からずに描かれた壁画も、シャーマンになる西あゆみもその口から出る言葉も、そして不条理にも未来世界へと飛ばされてしまった者たち自身もすべてはロング・ラブレターなのだ。「漂流教室」はそんなロング・ラブレターがぎっしりつまった作品だったのだ。それを大森美香は教えてくれた。原作のファンは数多くいるが、このことに気づいていた人は少ないに違いない。

 第9話で三崎結花はこんな言葉を口にする。「渡せなかった言葉とか気持ちとか、ずーっと信じてればいつか届くような気がするんだ、時間とか空間とか常識とか全部とばして、いつかきっと……」。このセリフは涙腺を刺激する。私たちは常日頃、胸の中に渦巻く感情を懸命に抑えながら生きている。その思いのほとんどは誰にも伝えられることなく日常は過ぎて行く。本当は伝えたほうがいいことも、伝えなければならないこともたくさんあるのはわかってはいる。でもそうしたことのほとんどは伝えられないまま時間は過ぎて行く。だからこのセリフはそんな自分に対するささやかな言い訳だ。自分では口にできないその言い訳を自分の代わりに語ってもらえるからこそ私たちはドラマという劇を観るのだろう。

 そしてこのセリフはラストシーンで、もう来るはずもない三崎をあてどなく待っている藤沢を訪ねるシーンへとつながる伏線になっている。彼女の黄色のコートは時間軸の歪みを象徴する色であると同時に、その先にある希望の色であり、別の世界とこの世界とを繋いでくれるロング・ラブレターの色なのだ。

■サバイバルについて

 原作ファンからの一番の批判は、原作はこんなホンワカしたラブストーリじゃなくてもっと過酷なサバイバルの世界を描いているんだゾ、という点にあるように思われる。もっともな批判である。しかしこのドラマの中で死んだ者のリストをよく見てほしい。

死んだ人 役職 殺した人 任命者
平沼剛(#4) 体育教師 若原
若原述之(#6) 学年主任英語 第2人類
侵入者たち3人(#7) 第2人類
二宮(#10) 柔道部員 第2人類
池垣(#8) 農林大臣 殉職 浅海(#5)
美雪(#10) 防衛大臣 殉職(第2人類) 三崎(#5)
結花(#11) マザー 殉職 浅海(#4,5)

 死んだ者は明確に2群に分けられる。ひとつは守るべき者、すなわち2002年から送り込まれた種子達=生徒たちに対して暴力をふるった者である。そしてもう一つのグループは殉職者たちである。農林大臣・池垣、防衛大臣・美雪、そしてマザー・結花。彼らはその役割を与えられて、それぞれ活き活きとその任務を遂行した。それにもかかわらず彼らには残酷にも死が用意されたのである。なぜだろうか。それは彼らが他者により任命されたからにほかならない。逆に生き残るものたちはどうだろうか。医師になった柳瀬はギリギリのところで自ら医師たることを決断した。川田咲子は総理大臣に立候補している。大友唯はこの荒れ果てた世界で生きてゆくという決意を持っている。高松翔はいつか元の世界に帰るという目標を持っている。生き残る者たちは、それが誰にも相手にされないものであっても、あるいはどんなに後ろ向きなものであっても必ず自発性を持っているのだ。これに対してどんなに充実した仕事ぶりをしようとも他者に推されてその任に就いた者には必ず死が待っているのである。

 第9話では畑に植えた野菜を間引きするエピソードが挿入されている。間引きとは本質的には優劣によってなされるものではない。生育にとって適正な距離を空けることにその目的がある。このドラマにおいてはその距離を計るモノサシが他者によって任命されたかどうかに設定されているということだ。大森美香はこうしたところにさりげなく、しかし明確に、冷徹な淘汰というサバイバルをキチンと仕込んでいるのである。

■ヒロインが死ななければならないわけ

 しかしその「間引き」のサバイバルは農林大臣・池垣、防衛大臣・美雪はともかく、完全なドラマオリジナルの主人公三崎結花が死ななければならない理由には直接結びつかない。死なせずにハッピーエンドにするシナリオだって作ることができたのではないだろうか、と考えるとやはりそうではない。なぜならば先述したとおり時間軸を歪ませて学校を未来世界へ漂着させてしまったのは三崎結花その人だからである。このドラマでは元の世界に帰る方法を見つけることのできた者は一人もいない。唯一まともに元の世界に帰ったのはハツ子の爪だけだ。でもほんとうは元の世界へ戻れる方法がたったひとつだけあるのだ。それはかつて三崎の教え子だった藤沢がその拳で開けた渡り廊下の穴を今度はMASH(三崎)が漲る思いを込めて叩くことだ。渡り廊下とは彼岸と此岸を結ぶ特殊な場所である。だからハツ子の腕がその穴から未来世界へ出てきたのだ。だがMASHがあの穴を叩いてしまうと学校は過去へ戻るかもしれないが、正しく2002年の1月7日午前11時15分に帰れるかどうかが疑わしい。ひょっとするとそれより1年半前の藤沢が事件を起こした時点に戻ってしまう可能が高いのではないかということになってしまう。

 物語の最後は未来へ来た者たちが自分たちが未来世界に蒔かれた種子であることを自覚して終わらなければならない。そのためにはシナリオとしては二度と再び時間軸が歪まないように固定化することが必要なのであり、それは三崎結花の死を以って初めて成立することなのである。彼女の死によってようやく漂流は終わり、砂漠の中に希望という黄色い花が結ぶのだ。

 しかしただ単に三崎結花を死なせればよいわけではない。彼女の死に際しては彼女がこだわった過去の清算という作業(=藤沢ベクトルの消化)を伴う必要がある。三崎が藤沢に会いに行ってお互いに「ずっと言いたかった」言葉を伝え合うシーンはその意味で欠くべからざるものだった。このシーンを三崎の死に際の夢とみるか、三崎の死霊が藤沢のもとに行ったとみるか、はたまた藤沢の悟りの幻と解釈するかは観る者に任されているわけだが、脚本の論理としてはこのように完結している。

■ラストシーン

 このドラマは結末がよくわからないという意見が多かったようである。その一つの理由は2002年に手紙を飛ばしたときの暁生の空想シーンであろう。これは第7話で瀕死の暁生が「もっと穏やかでもっと平凡な未来だってありえたはず」というセリフから夢を見るシーンが伏線になっている。手紙を飛ばしたときの暁生は三崎結花のいない砂漠で生きてゆくために、穏やかで平凡な未来を諦めるという形で結花に別れを告げているのである。このシーンでは結花は漂流を象徴する紫色のセータだけで希望の色である黄色のコートは着ていない。このことは漂流が終了したと同時に、暁生が結花という希望も失ったことが暗示されている。

 しかし2002年という過去に向けて放たれたロング・ラブレターは見事に時空を超えて、初めて二人が出会った日の晩に届いたのだ。その手紙はこなごなに破けてしまってちっとも読めないものだったけれどもその紙吹雪を手のひらに受け止めた暁生は昼間出会った三崎結花に再び会うべく決断して、今度はちゃんと電話をかける。そんなちょっとした「今を大事に」する気になったことで未来は変わる。たぶんきっとその後の二人は第7話で瀕死の暁生が夢見たような穏やかで平凡な未来を迎えることになったのであろう。最後に校門の外が緑に変わったのはそれを表している。

 2009年の今だって、依然として世界には大量の核兵器があり、戦争は絶えることなく続き、資源の浪費も砂漠化も加速度的に進行している。このドラマが放映された2002年よりももっと砂漠の未来は現実味を帯びてきている。だから私たちはもっと今を大事に、誰かから送られた心のこもった長い手紙を読みながら、もっと懸命に生きる必要があるだろう。 「きっと意味だってあるよ」そう思って「今を生きる」ことが世界を少しずつでも変えていくかもしれないから。

■第2人類について

 最後に第2人類について触れたい。死んだ者が2つの群に分類できることを先に述べたが、殉職者でない群のほうは基本的に下手人は第2人類である。これをみると第2人類は恐るべき敵であるようにみえるのだが実はそうではないのだ。(原作では未来人類と呼称している)第2人類に殺されたのはみな暴力的な人間達であることを鑑みるとむしろ彼らは悪を働く者たちを粛清していることがわかる。防衛大臣の美雪を殺したのも彼らだが、彼らが攻撃の対象にしたのは畑の野菜を一人で貪り喰う二宮だけだ。美雪は防衛大臣として学校に侵入してきた彼らを撃退しようとしたわけだが、彼らのほうからすれば攻撃してきたのは美雪であって、軽く自己防衛したら力の差がありすぎたために図らずも美雪が死んでしまったということに過ぎない。いつの世も「防衛」なる行為は恐ろしいものである。自らの蛮勇などを頼らずに言葉で応対していれば別の結果になったであろうに……。現に結花の遺体を抱いた暁生が涙ながらに絶叫して訴えたときは彼らは何らの敵意も示さず立ち去っていった。
 暁生に対して【「心」や「生きる意味」は、「生存」には、必要ない。】【弱い生き物は……滅びるしかない世界だ。】と返信してきた彼らは一つ大事な言葉を隠している。それは【不本意ながら】だ。彼らには心が、ヒトとしての心があり、沙漠の世界に過去から突然やってきた「弱い生き物」をヒトとして守ろうとする意志があるように思える。ただしそれはその「弱い生き物」たちが苦しい中にも秩序ある生活を営む限りにおいてなのであって、その秩序を自己中心的に暴力で壊す者に対しては彼らは一転して無慈悲な裁きを下す者となる。それが彼ら第2人類の「生きる意味」なのではなかろうかと思う。こんな不気味な生き物にもちゃんと存在理由を与えるところに愛にあふれた大森美香の世界観が感じられて好ましい。

 上記の文章は、2009年に書いたものだが、まとまりがなかったため公表していなかった。やや整理してこのたびアップするものだが、2011.3.11の原発事故があり、中東情勢の緊迫もあり、世界はさらに滅亡への勢いを速めている。その意味でも、このドラマは放映後約10年を経た今、いよいよその価値を増しているといわねばならない。

(2011.10.29)

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