[サッカー]

2022ワールドカップ招致について / 2010-09-09 (木)

 なぜ話題にならないのだろう。
 町田のJリーグ入会予備審査不合格の件で数え切れないくらいたくさんのサイトを見たのだが、2022ワールドカップ招致に関して触れている人は一人もいない。代表戦だって行われているのにだ。わずかに協会関係者が「なんのためにやっていると思ってるの」 とかぼやいているだけである。

 たしかにワールドカップ招致と町田の予備審査不合格とは直截的なつながりは、ない。
 だけど2010年のスタジアム検査要項の改訂にはまちがえなくワールドカップ招致が意識されているし、それが町田の予備審査不合格にも微妙な影を落としているのは明らかなのに。
 ある種のタブーなのだろうか、とさえ思う。

 しかし予備審査不合格の件で多くの人が感じている、不条理な感じ、釈然としない感じ、の源泉の一つの成分としてこの問題が必ず含まれているはずだ。その人に意識があるかないかに関わらず。

 そもそも2022ワールドカップ招致が行われていることがどれほどの人に知られているのだろう。私が知ったのは南ア大会の開催中だったように記憶している。大いに驚いた。そんなことが行われているとは夢にも思わなかった。だって、ついこの前、日韓共同開催でやったばかりじゃないか、なんで立て続けにやらなくちゃいけないのだろう、と思ったし今もそう思う。

 オリンピックの東京招致はB層の支持を集めたい都知事の半ば私的政策であることは言わずと知れたことだった。だからほとんどなんの盛り上がりもみせずに当然のごとく失敗に終わった。 それで良かった。

 では今回の2022ワールドカップ招致はどうなのだろう。誰が何を狙ってのことなのだろうか。よくわからない。地位の高い人の下心が透けて見えていればまだわかりやすい。でもたぶんそういう私的な何かから生じているようなものではないと思う。

 招致委員会のサイトを見ると「ワールドカップ開催を通じてサッカーの可能性を拡げ、日本の夢を、世界の夢を、実現していく」とある。ピンと来ない。当然である。今の日本はマイナス成長期にある。ハッキリいえば景気が悪い。良くなる材料も見当たらない。生活の水準を落として我慢しながら生きのびていくしかない。 今の日本は夢など追いかけている余裕はないのだ。ましてや世界の夢などとても背負いきれない。それが私たちの生活実感だ。招致委員会のスローガンがピンと来ないのはそのせいだと思う。

 巨額の財政赤字、円高、社会格差、医療や教育の崩壊、セーフティネットの未整備などなど今の日本には難問が山積みだ。日本という国はもう国家レベルではお祭り騒ぎなどやっていられないはずではないのか。2022ワールドカップ招致が大衆的に認知されないのはそういう暗黙の国民的合意があるからだと思う。

 先の記事でも書いたが、2010年のスタジアム検査要項は、ワールドカップの会場にさえなりうるようなスタジアムを想定して仕様が策定されている、たいへんバブリーな代物である。 2022ワールドカップ招致活動といい、スタジアム仕様といい、生活水準を落としてでも何とかやりくりしていこうという庶民の感覚とは大きいずれがある。方向が180度違うのだ。

 町田の予備審査不合格に関しては、2010年検査要項はおろか2009年要項すら満たしていないからだという説もある。おそらくそのとおりだろう。しかし2009年要項だってベクトルは2010年要項と同じだ。 かたや町田の姿勢は今手持ちの資源(町田市陸)でなんとかやりくりしようという方向なので、Jリーグ側とはやはり180度ベクトルが違う。本質的な問題はここにあったのではないか。
 私たちが今回の件で感じるなんだか釈然としない不条理感はここに根ざしているのだと思う。

(2010.9.9)


[サッカー]

Jリーグの参入障壁 / 2010-09-08 (水)

 この記事は特定の人に不利益を与える恐れがあるので削除しました。また題名も変えました。ただし文脈としては間違えてはいないと思いますので、お読みになりたい方はメールでご連絡下さい。

(2010.9.9)


[音楽]

「それが、愛でしょう」の謎 / 2010-09-03 (金)

 どこかのサイトで下川みくにの「それが、愛でしょう」を結婚式で歌いたい歌として挙げているコメントがあった。少々ドキッとした。というのは私自身この歌についてよく解らない謎をいくつか抱えていたからである。そこでこれを機に少々掘り下げて分析を試みることにした。

 まずこの歌の第一印象をまとめると、本当の愛とは何かについての気づきがありそれを現在のパートナーと育んでいこうとしている、という主旨であるように聞こえる。この印象からこの歌を結婚式で歌おうということになるのだろうと思う。だが「それが、愛でしょう」にはもっと複雑な事情が隠されているように感じられるところがあるのだ。

 誰しもが感じることだと思うが、最初に気になったのは、第1コーラスと第2コーラスの終わりかたと曲全体の終わりかたである。いずれもDJがターンテーブルをスクラッチするような断絶を強調したアレンジ(「ふもっふ、ふもっふ」と聞こえる効果音が突然入って終わるかたち)になっており、これが非常に強いインパクトを曲に与えている。とりわけ曲の終了の部分では余韻というものが全く残されていない。余韻をいかにして深いものにするかが文学・芸術の普遍なる課題である。その大事な余韻が残されていないというのはたいへん特徴的なアレンジであり、何らかの意図がこめられていると感じられる。またPVでは、最後の「ふもっふ、ふもっふ」の瞬間、それまでアップで映っていた下川みくにが突然消え去る映像になっている。サウンドのみならずPVの映像もまた余韻の無い断絶が表現されている。この断絶アレンジの意図がまず第1の謎である。

 この曲の構成は次のとおり。

■1コーラス目

Aメロ

Bメロ

サビ(1)

■2コーラス目(転調)

Aメロ

Bメロ

サビ(2)

■間奏

Coda

サビ(1)

CD Jacket

 謎を解くカギはシングルCDに入っているカラオケを聞かなけれけば手に入らない。かなり耳の良い人でないとボーカルのあるトラックを聞いているだけではなかなか気付かないだろうと思う。この曲にはイントロからディストーションのかかったエレキギターが使われており、この濁ったギターがときにサイドを刻み、ときにアルペジオをとるのであるが、第2コーラス目までは平穏を保っているこのギターがCodaに入るや突如として変調をきたすのである。その変調はサビに入るといよいよ顕著となりサビの絶頂時点ではもはや完全な不協和音となってしまうのだ。その調べは身悶えせんばかりの苦おしさに満ちていている。

 このCメロのギターアレンジを第2の謎としたいが、このギターの変調で解ることはこの曲は少なくとも単純に幸福や希望を表現したものではない、ということであろう。いやむしろ第1の謎の断絶アレンジとこの苦悩のギターアレンジを組み合わせて考えると、何らかの苦悩の果てに絶望(断絶)が訪れる、もしくは突然の断絶(絶望)によって苦悩に苛まれるというのがこの曲のほんとうの主題表現なのではないか、ということだ。

 では次に下川みくに自身による歌詞をみていこう。

■第1コーラスAメロ
例えばね涙がこぼれる日にはその背中を独り占めしたいけど

■第1コーラスBメロ
雨上がりの街虹が見えるなら今歩き出そう何かが始まる

■第2コーラスAメロ
何も言わないでもこんな気持ちが君の胸に伝わればいいのに

■第2コーラスBメロ
少しずつ街は色を変えるけどほら、想い出がまたひとつ増えた

 第1コーラスも第2コーラスもAメロの歌詞は文末を省略してハッキリした表現をしていない。音楽はどんどん流れてゆくから聴いていると明確な輪郭ができないうちにBメロが始まってしまう。明解な表現を避けたAメロに対してBメロは「歩き出そう何かが始まる」「またひとつ増えた」と断定的であり明快でありかつ積極的である。Aメロのぼんやりしたセンチメンタルな印象はBメロで払拭されて俄然前向きに元気な印象になる構造だ。

 サウンドの方は例の濁ったギターはイントロでカットを刻むだけでAメロでは使われず、代わりにアコースティックギターの高音のアルペジオが用いられていてクリスタルな印象を奏でている。そしてBメロの冒頭でジャーンと鳴って入ってくるのが例の濁ったギターなのである。

 音楽を聴かずにAメロの歌詞を読むと「けど」や「のに」は反語表現であることがわかる。「独り占めしたいけど(……それはできない)」、「伝わればいいのに(……伝わらない)」ということである。この反語によって否定的・悲観的な感情が暗示されているのだ。続くBメロでは前向きなポジティブシンキングに変化してAメロの悲観を打ち消している、かのように見えるのだが、第1コーラスは「虹が見えるなら」という仮定表現をとっている。現実的にも虹はそうそう頻繁に見られるものではないので、これは理想と現実にギャップがある、すなわち虹など見えないから歩き出せない、ということなのではないかとも解釈できる。第2コーラスのほうは、想い出が増えていく=価値のあるものはどんどん過去へと消えてゆく、というような含意があるように思えないことはない。一見前向きなようでいて実はその正反対で、ほとんど絶望に近いような解釈が可能なのがBメロなのである。濁ったギターがBメロから使われてゆくのはそれをサウンドで表現したものではないだろうか。

 そして問題のCメロである。

■Cメロ
ふとした瞬間つのる気持ちじゃなく少しずつ育てていくものだね愛する気持ちは

 この「ふとした瞬間つのる気持ち」とは、第1コーラスAメロで歌われた「涙がこぼれる日にはその背中を独り占めしたい」ような気持ちなのではないだろうか。「気持ち」が具体的に表現されている部分はここにしかないのだ。AメロBメロの他にCodaを入れるのは最近の流行りだが、再び第1コーラスAメロを連想させるパートだとすればこのCodaにはたいへん重要な意味があるといえよう。

そしてサビを検討しよう。

第1コーラス
……透き通るその目の中に 確かな意味を探して……

第2コーラス
……君の言葉のひとつひとつを今は抱きしめられる……

とある。長くなるので上記は抜粋したものだが、「透き通るその目」とか「言葉のひとつひとつを今は抱きしめ」というのは前後の脈絡がなく意味が掴めない。ところが実はこのフレーズはこの歌の3ヶ月前に既に歌われているのである。つまり一つ前のシングルに収録されている「Again」(下川みくに作詞)の中の以下の部分とみごとに対応がとれているのでよく見比べてほしい。

……ウソのつけない瞳が何よりも愛しかった……(「Again」第1Aメロ)

……からみ合った言葉をほどいてひとつずつ抱きしめてる……(「Again」サビ・リフレイン)

 この「Again」は聴く者に落涙を迫る隠れた名曲なのだがその歌詞は別れた恋人を慕い焦がれるという内容になっている。その「Again」のリフレインが「それが、愛でしょう」のサビに継げてあるとなれば、この2曲は姉と妹であって、まったく同じ血が流れていると断じてよいだろう。いかがだろうか。これですべての謎は解けていると思う。

 「それが、愛でしょう」はいうまでもなくTVアニメ『フルメタル・パニック? ふもっふ』オープニング主題歌である。これからアニメを見ようとするときにかかる音楽は楽しく高揚する雰囲気の歌でないと困るのである。別離を嘆き悲しむ湿っぽい歌であっては甚だ調子が悪い。実際この歌の全体の曲調は優美にしてテンポも軽やかでたいへん調子がよろしい。しかしここまで見たようにこの歌の内実は愛しい恋人と別れてしまった嘆きの詩なのである。軽妙にして快調な曲の中にいかにして悲しみの主題を潜ませるか、ここにアレンジの苦心が必要だった。その結果が曲の断絶とギターの変調を生み出したものと思われる。そしておそらく作詞もできるかぎりモチーフを隠蔽するために何度も何度も練り直したに違いなかろう。「Again」が収録された前作「all the way」から3ヶ月弱でこの曲をリリースしたのはさぞかしキツイ仕事だったと思われる。だが、だからこそこれは彼女の代表作になり得た。まさに、秘すれば花なり、である。

 ちなみにCDタイトルは「それが、愛でしょう/君に吹く風」となっており、この2曲のほかに「あれから」という歌が入っている。さりげなくひっそりと入れられたこの「あれから」にこそ「それが、愛でしょう」で抑えに抑え隠しに隠した彼女の真情が遺憾なく吐露されている。この曲もまた胸の奥を疼かせるような作品である。レコード会社がCCCDにしたためにその分傷がついてしまったのがいかにも惜しまれるのだが、それでも珠玉の名盤であることにかわりはない。


[音楽]

「それが、愛でしょう」の謎 / 2010-09-03 (金)

 どこかのサイトで下川みくにの「それが、愛でしょう」を結婚式で歌いたい歌として挙げているコメントがあった。少々ドキッとした。というのは私自身この歌についてよく解らない謎をいくつか抱えていたからである。そこでこれを機に少々掘り下げて分析を試みることにした。

 まずこの歌の第一印象をまとめると、本当の愛とは何かについての気づきがありそれを現在のパートナーと育んでいこうとしている、という主旨であるように聞こえる。この印象からこの歌を結婚式で歌おうということになるのだろうと思う。だが「それが、愛でしょう」にはもっと複雑な事情が隠されているように感じられるところがあるのだ。

 誰しもが感じることだと思うが、最初に気になったのは、第1コーラスと第2コーラスの終わりかたと曲全体の終わりかたである。いずれもDJがターンテーブルをスクラッチするような断絶を強調したアレンジ(「ふもっふ、ふもっふ」と聞こえる効果音が突然入って終わるかたち)になっており、これが非常に強いインパクトを曲に与えている。とりわけ曲の終了の部分では余韻というものが全く残されていない。余韻をいかにして深いものにするかが文学・芸術の普遍なる課題である。その大事な余韻が残されていないというのはたいへん特徴的なアレンジであり、何らかの意図がこめられていると感じられる。またPVでは、最後の「ふもっふ、ふもっふ」の瞬間、それまでアップで映っていた下川みくにが突然消え去る映像になっている。サウンドのみならずPVの映像もまた余韻の無い断絶が表現されている。この断絶アレンジの意図がまず第1の謎である。

 この曲の構成は次のとおり。

■1コーラス目

Aメロ

Bメロ

サビ(1)

■2コーラス目(転調)

Aメロ

Bメロ

サビ(2)

■間奏

Coda

サビ(1)

CD Jacket

 謎を解くカギはシングルCDに入っているカラオケを聞かなけれけば手に入らない。かなり耳の良い人でないとボーカルのあるトラックを聞いているだけではなかなか気付かないだろうと思う。この曲にはイントロからディストーションのかかったエレキギターが使われており、この濁ったギターがときにサイドを刻み、ときにアルペジオをとるのであるが、第2コーラス目までは平穏を保っているこのギターがCodaに入るや突如として変調をきたすのである。その変調はサビに入るといよいよ顕著となりサビの絶頂時点ではもはや完全な不協和音となってしまうのだ。その調べは身悶えせんばかりの苦おしさに満ちていている。

 このCメロのギターアレンジを第2の謎としたいが、このギターの変調で解ることはこの曲は少なくとも単純に幸福や希望を表現したものではない、ということであろう。いやむしろ第1の謎の断絶アレンジとこの苦悩のギターアレンジを組み合わせて考えると、何らかの苦悩の果てに絶望(断絶)が訪れる、もしくは突然の断絶(絶望)によって苦悩に苛まれるというのがこの曲のほんとうの主題表現なのではないか、ということだ。

 では次に下川みくに自身による歌詞をみていこう。

■第1コーラスAメロ
例えばね涙がこぼれる日にはその背中を独り占めしたいけど

■第1コーラスBメロ
雨上がりの街虹が見えるなら今歩き出そう何かが始まる

■第2コーラスAメロ
何も言わないでもこんな気持ちが君の胸に伝わればいいのに

■第2コーラスBメロ
少しずつ街は色を変えるけどほら、想い出がまたひとつ増えた

 第1コーラスも第2コーラスもAメロの歌詞は文末を省略してハッキリした表現をしていない。音楽はどんどん流れてゆくから聴いていると明確な輪郭ができないうちにBメロが始まってしまう。明解な表現を避けたAメロに対してBメロは「歩き出そう何かが始まる」「またひとつ増えた」と断定的であり明快でありかつ積極的である。Aメロのぼんやりしたセンチメンタルな印象はBメロで払拭されて俄然前向きに元気な印象になる構造だ。

 サウンドの方は例の濁ったギターはイントロでカットを刻むだけでAメロでは使われず、代わりにアコースティックギターの高音のアルペジオが用いられていてクリスタルな印象を奏でている。そしてBメロの冒頭でジャーンと鳴って入ってくるのが例の濁ったギターなのである。

 音楽を聴かずにAメロの歌詞を読むと「けど」や「のに」は反語表現であることがわかる。「独り占めしたいけど(……それはできない)」、「伝わればいいのに(……伝わらない)」ということである。この反語によって否定的・悲観的な感情が暗示されているのだ。続くBメロでは前向きなポジティブシンキングに変化してAメロの悲観を打ち消している、かのように見えるのだが、第1コーラスは「虹が見えるなら」という仮定表現をとっている。現実的にも虹はそうそう頻繁に見られるものではないので、これは理想と現実にギャップがある、すなわち虹など見えないから歩き出せない、ということなのではないかとも解釈できる。第2コーラスのほうは、想い出が増えていく=価値のあるものはどんどん過去へと消えてゆく、というような含意があるように思えないことはない。一見前向きなようでいて実はその正反対で、ほとんど絶望に近いような解釈が可能なのがBメロなのである。濁ったギターがBメロから使われてゆくのはそれをサウンドで表現したものではないだろうか。

 そして問題のCメロである。

■Cメロ
ふとした瞬間つのる気持ちじゃなく少しずつ育てていくものだね愛する気持ちは

 この「ふとした瞬間つのる気持ち」とは、第1コーラスAメロで歌われた「涙がこぼれる日にはその背中を独り占めしたい」ような気持ちなのではないだろうか。「気持ち」が具体的に表現されている部分はここにしかないのだ。AメロBメロの他にCodaを入れるのは最近の流行りだが、再び第1コーラスAメロを連想させるパートだとすればこのCodaにはたいへん重要な意味があるといえよう。

そしてサビを検討しよう。

第1コーラス
……透き通るその目の中に 確かな意味を探して……

第2コーラス
……君の言葉のひとつひとつを今は抱きしめられる……

とある。長くなるので上記は抜粋したものだが、「透き通るその目」とか「言葉のひとつひとつを今は抱きしめ」というのは前後の脈絡がなく意味が掴めない。ところが実はこのフレーズはこの歌の3ヶ月前に既に歌われているのである。つまり一つ前のシングルに収録されている「Again」(下川みくに作詞)の中の以下の部分とみごとに対応がとれているのでよく見比べてほしい。

……ウソのつけない瞳が何よりも愛しかった……(「Again」第1Aメロ)

……からみ合った言葉をほどいてひとつずつ抱きしめてる……(「Again」サビ・リフレイン)

 この「Again」は聴く者に落涙を迫る隠れた名曲なのだがその歌詞は別れた恋人を慕い焦がれるという内容になっている。その「Again」のリフレインが「それが、愛でしょう」のサビに継げてあるとなれば、この2曲は姉と妹であって、まったく同じ血が流れていると断じてよいだろう。いかがだろうか。これですべての謎は解けていると思う。

 「それが、愛でしょう」はいうまでもなくTVアニメ『フルメタル・パニック? ふもっふ』オープニング主題歌である。これからアニメを見ようとするときにかかる音楽は楽しく高揚する雰囲気の歌でないと困るのである。別離を嘆き悲しむ湿っぽい歌であっては甚だ調子が悪い。実際この歌の全体の曲調は優美にしてテンポも軽やかでたいへん調子がよろしい。しかしここまで見たようにこの歌の内実は愛しい恋人と別れてしまった嘆きの詩なのである。軽妙にして快調な曲の中にいかにして悲しみの主題を潜ませるか、ここにアレンジの苦心が必要だった。その結果が曲の断絶とギターの変調を生み出したものと思われる。そしておそらく作詞もできるかぎりモチーフを隠蔽するために何度も何度も練り直したに違いなかろう。「Again」が収録された前作「all the way」から3ヶ月弱でこの曲をリリースしたのはさぞかしキツイ仕事だったと思われる。だが、だからこそこれは彼女の代表作になり得た。まさに、秘すれば花なり、である。

 ちなみにCDタイトルは「それが、愛でしょう/君に吹く風」となっており、この2曲のほかに「あれから」という歌が入っている。さりげなくひっそりと入れられたこの「あれから」にこそ「それが、愛でしょう」で抑えに抑え隠しに隠した彼女の真情が遺憾なく吐露されている。この曲もまた胸の奥を疼かせるような作品である。レコード会社がCCCDにしたためにその分傷がついてしまったのがいかにも惜しまれるのだが、それでも珠玉の名盤であることにかわりはない。